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橋本努講義「経済思想」小レポート2005 no.1.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

最初に、本年度の最優秀レポート(多積麻衣子さん、松島なほ子さん、千坂瑞希さん)を紹介します。

 

 

「大学改革論」

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 講義の中で、大学の一、二学年に教養科目の講義を行ない、専門的な科目は三学年から学ぶことで学生の選択の幅を広げるという提案が示されたが、私はこれは本末転倒であると感じた。その理由は以下のとおりである。

 まず第一に、大学は高校の延長ではなく、専門教育や研究の場だということである。大学での学習には高校レベルの知識が必要となってくるのは確かなことで、私自身も大学生活の中でそれを痛感することは多い。だからこそ思うのだが、それは高校で既に終了しているべき内容であり、その達成度を不十分ながらも判定するのが大学入試の目的ではないだろうか。高校での三年間ではカバーできなかった科目や範囲が存在するのは当然起こりうる事態であり、それを補うための教養科目を実施する必要はあるだろう。しかし、大学で学ぶべきなのはそれらが既得された上での学習であり、そのために大学の二年間を教養を中心とした過程とする必要性には疑問を感じる。

 第二に、二年間の教養課程修了後の大学三年時に専門的な進路を決定することは、確かに二学年時の選択の幅を広げることになるとは思う。しかしそれは、専門科目の本格的な学習が後回しにされることでもあり、結果として大学の本分である「研究」というものに対する選択の幅が狭まってしまう。

 レイチェル・カーソンの「沈黙の春」以来、その重要性が叫ばれている既存の専門分野にとらわれない研究は、それぞれの分野の基礎段階だけでなく、より専門性の高い段階においてこそ必要になっていると思う。そのためには教養過程を中心とした複数分野の学習では力不足であろう。むしろ他学部の専門講義の履修や短期間の学部間留学の普及・活発化に力を入れることに重点を置くべきである。

 具体的な方策として、単に成績だけではなく、他学部の講義の単位の取得数に応じて奨学金・学費の免除の額を多くすることが挙げられる。ハイレベルな専門講義で単位を取るには、その基礎となる知識が必要となる。従って、より多角的な勉強を自主的に行うだけのやる気のある学生がより多くの奨学金・学費の免除を受けることが出来るようになる。

 第三の理由は、学生の決断に猶予を与えすぎているということがある。改革論の提案によれば、高一からでも専門的な学問をすることも可能にはなってはいるが、大学二年次に三年進級試験に合格し、三年に進級するのが一般的となるだろう。つまり、自分の進路の最終決定は主に二十歳前後まで引き延ばすことが可能になってくる。この年齢は、進路の「選択の自由」を保持するには高すぎる。

 二十歳とは、肉体的にも法律的にも立派な「大人」となる年齢である。教育の役割は、新しい世代に知識や学歴を与え、生活の糧を与えることだけではない。その社会を保持・発展させる能力と自覚を持つ新たな構成員を養成するという社会的な役割も持っている。人生の大きな転換点である進路選択が二十歳前後になることで、その時まで自分について深く考え切れていない「子供」から抜けきれない「大人」が増加し、後者の役割が失われる可能性がある。

 高校において、既に学生は文系・理系や学ぶ科目の選択によって自分が向いているもの・なりたいものの方向性を多かれ少なかれ理解しているとみるべきであるし、その決定に責任を持つことは十分に可能である。実際、私たちの親の世代は中・高校生で具体的な進路決定をすることは一般的であったことからみても、中・高卒でも自分の人生に対して責任を持つことは能力的に十分可能であると思う。

 確かに、親の世代と現在では、中・高卒の就職率や専門分野の細分化が進んで早期の選択が難しいといった状況の違いがある。しかしその状況に対応して目的を持たずに進学する学生が増加することは、結果として大学生の質を落としていくことであり、二十歳を過ぎても不労層として社会にパラサイトする若者が増加していくことでもある。

 それを是正するために大学がすべきことは、大学に教養科目を開設することの他にも、講師を積極的に高校に派遣し、学生が専門的な学問に触れる機会を増やすことである。大学の講義に触れることで、学生は大学進学に具体的な目的を持つことが可能になり、進学をせずに社会に出た場合でもただ高校の学習課程を修了しただけの時よりもより社会に貢献できるようになるだろう。

 

「ドイツ・イデオロギー」(511日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 今回の講義の中の「実践の変革の連続」という共産主義の定義は、私の認識する社会主義の定義とほぼ同じものであると感じた。その認識の限りにおいて、共産主義は、思想的にはその前段階と考えられていた資本主義に「負けた」(または淘汰された)思想であるという印象がある。共産主義が支持された理由と、その敗因について考えてみようと思う。

 共産主義の理想的な生活像と、人間が歴史的に発展させてきた「分業」と「個人所有」を廃止するという論だけを見ると、この理論は、まるで物質的労働と精神的労働が分離し、社会的な分業が成立する以前の自給自足の生活へ戻ることを推奨しているかのようにも見える。しかし、それはごくごく表面的な見方に過ぎず、むしろ人間の意識・思想が発達することで、社会が生活全般を規制することが可能になり、歴史的な必要性からうみだされた「分業による人格的な諸力」の強制力が必要とされなくなる「進化」を予測したものであると思う。

 つまり、生産力・社会状態・意識が相互に矛盾をかかえざるを得なかったとしても、階級によって、または所有による物的な強制力によって個人の活動範囲を規定することで、自然発生的な協業による生産力を確保するというこれまでの私的所有社会は、分業を廃して諸個人が自由な状態で連帯することで生産を行なう共同社会となってゆくという予測である。そしてその変化は、「精神的批判ではなく革命による実在的な社会関係の転覆によって可能になる」ものであり、革命の必然性=共産主義的意識は、「社会からどんな利益も受けない一階級」から出てくるものだと考えられていた。

 時代背景を考えてみると、マルクス・エンゲルスの生きた19世紀は、それまでの特権階級の枠にはまらない新興勢力であるブルジョアジーが富を集積し、労働者階級を物的な強制力によって従属させていた時代で、階級に対する社会的な不満が高まっていた時代でもある。また、フランス革命を火付け役としたヨーロッパ各地での革命を通して、それまでの被支配層である民衆・大衆が急速に力をつけ、理想主義的な面が生まれていた。当時の社会的な背景からすれば、人類の平等と幸福を唱える共産主義という考えが発生し、支持をえたのは当然なことであっただろう。

 では、共産主義が資本主義に「負けた」理由はなんだろうか。私はそれは共産主義が支持された理由と同じ所にあると思う。

 共産主義は革命や大衆運動の精神の高揚の中で生まれた理想であり、それ故に高い支持を得た。その主張の目指す方向は、職業選択の自由、自分の全人的な能力を自由に伸ばせるように活動範囲を制限されずに活動できるなど、諸個人の人格的自由を尊重する、とても現実に実現可能だとは思えない理想的なものである。社会の変化から自然発生的に誕生した資本主義と違い、そこに机上で作られたものにありがちな思想的な「良さ」はあっても、社会を構成する個人の存在諸条件をコントロールできない可能性を持つという根本的で現実的な欠点があったことが、共産主義が現実の社会に適応しきれなかった一番の理由であるように思う。

 

「経済学・哲学草稿」(516日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 共産主義の第一形態、粗野な共産主義の一段階として、結婚の廃止と女性の共有化が論じられているのは、とても興味深いものである。プリントの引用において共有化されているのが「女性」のみであるのは、当時の社会状態によるものと考えられるので、現在では男女それぞれが共有化される、という意味で理解してもよいであろう。今回は、結婚と男女の共有化について私の思うところを述べてみたい。

 まず、「結婚の廃止」についてだが、私はよく、結婚の意味ついて考えることがある。宗教上の結婚は、神によって許可され、その宗教への帰属意識を強化するとともに社会の伝統的なモラルを保持する役割がある。また、宗教を離れた社会的な面から言うと、結婚はある集団と別の集団を結びつける役割がある。更に、個人にとって結婚は宗教・人間関係・法律等の様々な面から相互に、または一方が独裁的に相手を束縛することとなる契約状態である。以上の三つが私の考える結婚の定義の基本である。

 それをふまえた上で、自由主義・個人主義が嗜好される現代社会において、結婚制度の位置づけと必要性は存在するのか、また存在するならばそれはどこにあるのか。この問題に対する答えは未だに私の中ではでてはいない。また、これに関連して、現代社会において、結婚しない女性が「負け犬」という呼ばれ方をするという事実にに対しても私は疑問を持っている。現代社会は自由主義・個人主義が評価され、女性が単独で生きていける力を持ち、「結婚制度」は兎も角としても「結婚」の絶対の必要性は(特に女性の側からすれば)なくなりつつあると思っている。そのような社会において、未婚への軽蔑=強い結婚志向が出て来るという社会と精神の間の矛盾は、前述の結婚制度の存在に関する問題とともに、私が今最も興味を持って考え続けている議題のひとつである。

 つぎに、「男女の共有化」について考えてみたい。「共有化」は、資本主義社会の中でも一夫多妻制・一妻多夫制という文化として、不十分で一方向のみのものではあるが存在する。歴史的に見ても当事者、特に1人を共有し合うもの同士が互いに円滑な関係を築くことは、絶対的に不可能なことではない。多妻・多夫制が「一夫」「一妻」であるのは、中国の後宮などに見られるように父または母方の血縁であることがその関係において重要であるためである。共産主義においては、人間はすべて種・族にとらわれない類的存在として現れてくるため、血縁などの小規模な集団意識にはとらわれなくなる。このことから、共産主義社会において男女の共有化は不可能なことではない。ただし、現実的に制度として実施しようとするには、かなり無理のあることではある。

 最後に、上の二つが社会制度として確立し得たという仮定の上での話をしたい。この場合、HIV感染症・梅毒・淋病といった性病を初めとする衛生・健康面の問題や、妊娠によって一時的または一生就労できなくなった女性への経済的な負担責任、「結婚」という道徳的な規制の消滅や実親の育児負担の軽減、妊娠機会の増加によって当然増えると予想される人口問題などが持ち上がってくるのは確実である。現実的には、社会制度や思想以前の問題として、「結婚の廃止」「男女の共有化」は実現させない方が「人類」のためである。

 

「ゴータ綱領批判」(516日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 今回の講義では、平等という単語について考えさせられた。平等とは、単に「均等である」という意味でしかないが、その用いられる範囲・分野は幅広い。特に、社会のなかの権利に関しては、重要なものから些細なものまで、実に多くの平等に関する主張が行なわれている。

 社会における「平等」とは一体なんだろうか。平等であること、平等にあつかわれる権利が認められていることは、現在の民主主義社会において最も重要なことである。どのような部分においてその権利が行使されるのかについては、国の法律などによって多少の違いはあるが、人種・信条・性別・社会的身分、政治的・経済的または社会的関係など、法的に保障された「平等」の内容は、個人の自由意思よりも個人のおかれた環境が原因となる部分が一般的である。

 現代社会では、平等は「人間が生まれながらに持っている当然の権利」とされ、基本的人権のひとつに数えられている。しかし、日本国憲法に「法の下の平等」と書かれているように、平等の権利は法によって保障されると同時に法によって変更されるものであり、実際には常に侵害される危険性に晒され続けているものだといえる。

 初期の共産主義社会では、個人が生産した財の大小にかかわらず、労働した時間の価値を平等とすることで形式的な平等が実現される。しかし、人間の能力は生まれながらに不平等であることを考えると、能力の違う人間が同じ時間を使って財を生産する時、そこには必ず差が生じる。それは、時間を基準として権利の平等をはかると同時に、個人の能力に対する不平等となる。

 また、発展した共産主義社会では、個人が生産のために費やした労働ではなく個人が社会に与えた生産量を基準として平等がはかられており、個人の能力と必要に応じて権利が給付される。これは、まず社会全体としての利益を計る共産主義思想の上では、実に妥当な制度であると思う。

 しかし私は、共産主義社会がその初めの頃のように資本主義の上ではなく、それ自身の基礎の上に発展したとして、その状態を継続することができるのかどうか疑問に思う。その理由は、共産主義が不平等是正のプロセスそのものとなっているからである。

 私は、平等を目標とする活動・相互扶助は、不平等が前提となって生まれるものだと思っている。個人がその能力を使って得ることのできる権利や利益に差が生まれ、それが次第に能力や天分といった要素を原因としない不平等として表れてくることで、初めて平等−不平等という意識が本人達に発生するのである。

 不完全ではあるが例を挙げてみると、地主階級・資本家階級・労働者階級との間に階級的不平等が存在するからこそ、それぞれの利益を巡って階級闘争が行なわれることで、最も不平等な扱いを受けてきた労働者階級を中心とする社会主義が発生したのである。

 ここで、共産主義社会において、平等な社会の上に立って平等な社会を志向するという矛盾が生じる。平等な社会を志向するには、まず不平等な社会を前提として、不平等という概念が社会の中に存在していなくてはならない。このことから、私は共産主義は資本主義の次の段階の社会構造ではなく、資本主義の不平等に関する問題を修正するための補助的な存在として表れるものなのではないかと思った。

 

「プロテスタンティズムの天職倫理」(6月8日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 講義の最初の部分で、プロテスタンティズムから近代資本主義が生まれ、富の蓄積がされるという図が示されたが、私はこれは逆ではないかと思う。確かにプロテスタンティズムによって、近代資本主義が確立したことは確かだが、プロテスタンティズムが生まれたそもそもの原因は、富の蓄積と近代資本主義の萌芽にあると私は考える。

 その根拠について、「なぜプロテスタンティズムがこの時に発生したのか」と、「プロテスタンティズムの誕生の背景はどこにあるのか」という二つの面から論じてみる。

 まず「なぜプロテスタンティズムがこの時に発生したのか」についてだが、カトリシズムを伝統主義社会の中のひとつの要素だと考えたとき、これは「なぜこの時に伝統主義が否定されたのか」から考えることができる。

 伝統主義社会では、その「伝統」という言葉が示すとおり、生活様式・生活レベル・考え方は各世代においてほぼ踏襲され、大きな変化は見られない。しかし、現代社会の私たちも実感として理解できることだが、一般的に若い世代というのはその一つか二つ前の世代(特に親の世代)に対して反動的な方向性を選択する傾向がある。にもかかわらず、伝統主義社会においてそれが押さえ込まれてきたのには、生産手段や制度・経済的な限界から、「伝統的」選択肢以外の選択肢が人々の中に存在し得なかったためであると思う。

 逆に言えば、伝統主義社会いうことは、伝統主義社会の枠組みの中での選択以外の選択肢の存在を人々が認識したということでもある。

 16世紀の思想の変化、つまりプロテスタンティズムの発生は、この生産手段・経済的な制約の変質である近代資本主義が確立はしていなくとも、その萌芽が存在していなければ起こりえないものである。

 また補足として、この論の具体的な根拠として免罪符の存在をあげておく。ここでいう免罪符とは教会が資金集めのために「罪を許される」という題目の下に発行されたものであり、プロテスタンティズムのカトリック批判の中で大きなウェイトを占めている。しかし、W↓=L↑の伝統主義社会において、人々は免罪符を買う余剰貨幣を得るために余分な労働をするだろうか。人々の生活において信仰が重要なものであったとしても、免罪符はそれまでの生活パターンを変えてまで入手しなくてはならないものであったとは考えにくい。免罪符の存在は、人々が「罪を許される」という非生産的で不確かなものを買うだけの余剰貨幣を有していたこと、つまり余剰貨幣を得るためのW↑=L↑が既に始まっていたことを裏付けている。

 次に、「プロテスタンティズム発生の背景はどこにあるのか」についてである。プロテスタンティズムの信仰の基本はカトリシズムからほとんど変化していないため、その発生原因がそれまでのキリスト教カトリシズムの教義ではありえない。

 ルターから始まったプロテスタンティズムは、職業を神から与えられた「天職」として神聖化している。これによって資本主義の精神と活動を正当化され、プロテスタンティズムはその心理的起動力となる。

 しかしここで、私は「天職」の神聖化の根拠について疑問を呈したい。「天職」という考え方は、プロテスタンティズムによって新たに作られた概念である。それを聖書と信仰の原点に立ち返る福音主義と結びつけ、さらにそれを追及しないことを「義務『忘却』」とすることは、いささか強引な理論であるように私には思える。

 これによって、私はプロテスタンティズムは「天職」と資本主義の正当性を保障する必要があったのではないかと考える。つまり、福音主義を中心とした宗教改革の一環(または結果)によって資本主義の正統性が保証されたのではなく、プロテスタンティズムそのものが近代資本主義の発展を正当化する必要性から発生したという部分もあるのではないだろうか。

 

「人間の条件」(6月13日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

「いかに生きるべきか」という問いに対しては、個々人の経験・環境・性格・人間関係・人生観、その他様々な要素が少し違うだけでまったく別の答えが出される問題である。それはつまり、いかに生きる「べき」という問いに対する普遍的で絶対的な解答は現実には存在しないということだと思う。だからこそ、この「いかに生きる(働く)べきか」の問いに対する私の答えは、私個人の人間観によるものであり、「私が将来現実的につくであろう仕事」に対する答えとは違ったものとなっている。

 三つの働き方、労働・仕事・活動の中で、私が最も心惹かれているのは「労働」である。労働のみに従事するものは、土地をはじめとする様々な制約に縛られるし、歴史的に見ても階層の底辺におかれる場合が多い。経済・社会的に一番「割に合わない」仕事であるといえる。また、その状態や日々の単調な繰り返しは、確かに奴隷的で何も残せない無意味なものであるように見える。しかし私は、それこそが三つの中で一番人間的で永続的を持っていると感じる。

 職人や建築家といった「仕事」は、個人の生命を越えた耐久性を持つものを目的を持って作り出し、それは永遠性を持っているとされる。だが、その永遠性には限界があると思う。永遠性の「限界」の根拠は、それが目的と記録という耐久性に限界のあるものに依拠して成り立っているからである。

「仕事」によって生産された結果は、目的がある限り継続し、個々の工作物の腐食によって消滅するものではない。しかし、目的、工作物を継承する人、そしてその手段のどれかひとつでも消滅すれば、それが永遠性はただの幻になりうる。それ自体が継承手段でもあった言語・文字がいい例である。

 対して、「労働」は生命過程そのものの必要に依拠するものであり、人間が存在する限りその目的は継続するし、その循環過程は手段によって左右されるものではない。「労働」の目的と存在の継続性は、人間の存在そのものによって保障されている。「仕事」は確かに個々の働きの結果を長く保つことはできるが、「労働」と対応させた時、それが永遠性を持っているとは言えないと思う。

 私が「仕事」や「活動」は、実際には「労働」に対して奴隷的ではないかもしれないが、常に従属的な立場にあると思っている。「仕事」と「活動」が人間的自負に対してどれほど重要であろうとも、そもそも頭や手や口といった肉体を維持できなければ成立できない。つまるところ、この二つは人間社会の中で上位に位置するものであっても、自身の維持のために「労働」の恩恵を与えられなくてはならないのである。自分の生存条件を他人に常に依存する状態は、本質的な部分で従属的であると思う。

 ここまで私の中の「労働」の他二つに対する優位性について書いてきたが、実際に私が将来選択するのは「活動」だと思われる。確かに、私が最も「人間の条件」として本質的な重要性を感じるのは「労働」だが、現実の今の社会構造が崩れるとはえないし、どちらにも生活の保障と選択の余地が有るのなら、より楽な方を取りたいと思うのは『人』として当然の「人情」である。

 

「エロス的文明」(6月15日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

「エロス」という単語について、私たちは性的な欲望という意味の単語というイメージをもっている。しかし、本来の「エロス」は単なる性欲だけでなく、性欲を中心とした生の衝動を意味するのだと、今回の講義で初めて知った。その語意の齟齬のため、今回の講義について論じられるほど講義内容を理解することができなかった。よって、今回は私が本来の意味であるエロスを講義を通じてどのように理解したかを文明との関係性から綴ろうと思う。

○文明に抑圧されるエロス

 文明とは、何よりもまず必要な生産を獲得し、更にそれを増大させる仕事の進化である。その労働はエロスを抑圧する非リビドー的なものであり、労働のためのエネルギーはその抑圧された本能が昇華されることで引き出される。

 文明が継続し、発達するのに決定的な役割を果たすのが、社会道徳と罪悪感である。エロスがその欲求のままに活動しようとするのを禁止する社会道徳と、禁圧から解放されようとするエロスの動きを抑制する罪悪感(良心)によってコントロールされることで、エロスは一夫一妻制などの現実原則に服従し、常にその中で昇華されるようになり、文明発展の原動力となる。

○文明を破壊するエロス

 文明は、エロスが昇華され続けることを通じて自身を維持し、発達を継続させようとする。しかし、進化し続けた生産は最後には昇華のエネルギーをそれ以上注ぐ必要がないほどに増大し、労働の社会的欲求を減少させる。これは、それまでの社会道徳の存在の社会にとっての必要性が希薄になったということでもある。存在の必要性をなくしつつある社会は、その維持のためにエロスへの規制の厳しさを増す。その過剰な抑圧は、それまでエロスをコントロールしてきた社会規範と支配者階級の排除に人々を向かわせる。

 この時、エロスの社会道徳の抑圧・支配からの解放は、生命を無機物状態へ還元しようとする破壊衝動であるタナトスとともに、その文明の自己破壊の決定的な要因となる。

 私は、エロスによる抑圧からの解放の過程は、たとえそれが社会をより高い文化へと導くものだとしても、暴力的な要素を含まずにはいられないと思う。それは、それが抑圧や支配に対する抵抗という性質を持つという理由だけではない。活動の根元となるエロスとタナトスは、人間の最も原始的で利己的な部分である本能だからである。利己心と利己心の対立であるのならば、それは主張・正当性(妥当性)・社会や経済的な優位性にかかわらず、主導権の移行は常に闘争という形で行なわれる。

○文明を生み出すエロス

 エロスが文明を破壊し、それまでの過剰な抑圧が過小な抑圧へと変化したとき、その反動は「自由への不安」によって表れてくる。過剰抑圧の消滅に伴いそれまで従ってきた価値観が消滅し、社会は一時的に快楽原則の状態にまで退行する。解放されたエロスは社会を無秩序化し、生活の意味の喪失・不安・孤独を生じさせる。加えて以前の秩序を破壊したことに対する罪悪感が、新しい社会道徳を生み出すタブーと禁制による抑圧=新しい文明を成立させる。

 

「公共性の構造転換」(6月20日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 古代ギリシア時代から16,17世紀までの「公共性」は、時代ごとにその担い手も時代に対する役割もまったく異なっている。

また、「公共」によって表現されるものも時代によって様々である。

ギリシアにおいては論理の正当性を、中世では軍事・経済力による支配の正統性を、14世紀には社交界によって文化性の高さ・血筋や支配の継続による絶対君主の権威と権力の妥当性を、16,17世紀には国家行政の指針と公権力の担い手である「公衆」の意思が公共の場で示されている。

これらのことから、「公共」という言葉の本質は、その担い手や表現方法の部分にないのがわかる。階級・立場を越えた社会全体に対してなにかを表現する場が、この古代ギリシアから16,17世紀における「公共」の意義なのだと私は思う。

 講義でも話題に上ったが、日本人は総じて議論することが苦手である。議論だけではなく、公の場での発言やほかよりも傑出することをたいていの人は避けようとする。現在の「公共性」に対してこれほど個人がなじめないのにはさまざまな理由が存在するが、その中でも私が特に有力であると思う理由について述べる。

 まず一つ目は、歴史的な要因である。これはさまざまな場で言われていることではあるが、公論をその内側から生み出した欧州社会と違い、日本はそれまでの封建主義社会の中にその制度を外から取り入れている。歴史的な必要性がないままに欧州の「公論」を取り入れ、国家権力への従属・忠誠の文化が残ってしまったことが、公に対して批判精神を持つことに日本の「公衆」が抵抗感を感じる大きな理由のひとつであると私は考える。

実際、日本人は国家の行動に対してどこか他人事な風情があり、個人の政治への参加に投げやりな部分が常にあるように見受けられる。これは、日本人には民衆自身が国を監視し、管理するという意識よりも国によって自分たちが強制的に管理されているという意識が強いためであると思う。

 次に、日本人が「公私」の区別を明確にしていないことである。

一般的に、公の場での発言に発言者が責任を持つのは当然であるが、議論上での対立やその内容は必ずしも私的な場や人間関係に持ち越されるものではないし、私的な関係が公的な場にあまり深く持ち込まれるのは好ましくないことである。これは一般論であるし、どんな社会でも多かれ少なかれ公私の領域は混ざり合っている。しかし日本では、その傾向が特に強区、それが積極的に意見を戦わせることをためらわせているように思う。私たち日本人は、議論という形であっても相手を否定することに罪悪感を感じるし、逆に相手から意見を批判されると己の人間性を否定されたかのような気分に陥る。また、上司または目上の人物の意見に対して反論する時にも「それは間違っている」とはっきりと否定はせずに、「お説ごもっともですが…」と一旦相手を肯定する形式で始めるのが普通である。

 最近では、日本人でも議論によって意見を戦わせることができる人が増えてきていると思う。欧米的な率直で活発な議論が増えると同時に日本独特の微妙な言い回しがなくなっていくのは淋しくはあるが、この傾向は日本人が欧州的な「公共性」に適応してきたということでもあり、これからの経済・文化的な発展にとって、必要で有用なことであると思われる。

 

「有閑階級の理論」(6月22日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 歴史や環境によって生み出された文化が、高い文化性を持つものへと発展するためには、時間的・経済的な資源が大量に費やされなくてはならない。それは、その文化に関心を持たない者や製作者本能から見れば完全なる無駄であり、嫌悪されるべき浪費である。ある文化に対してどちらの立場に立つかはその人の嗜好と思考の問題であり、双方とも相手の立場に対して許容や理解を示すことは難しい。

 

 私の身近にはブランドを持つ人はいないため、私が様々な媒体から得た「ブランド好きの女性」の行動や価値観に対するイメージは、以下のようなものである。

・製品の全面にブランドを象徴するマークが付けられたバックなど、既存の商品の形や色少しを変えただけの「新商品」を、かなりの時間や金額を使ってまで(そして時には借金をしてまで)入手しようとする。

・商品を手に入れたことに満足し、使わずに放置する。または、見せびらかすことで満足感を覚える。

・「新しいモノ」「流行」「レア」ならば、たとえ必要なくとも(似たものは既に持っていて飽和状態であろうとも)ほしがる。

 このような「ブランド好きの女性」の心理について、私は今まで深く考えようとはしなかった。その理由は「未知への恐怖」にあると自己認識している。

 ファッションやブランド品に関しては、私は製作者本能的な立場に立っている。こと身につけるものに関して、私は実用性を第一だと考えており、大抵のものを親や知り合いに「もういいかげん取り替えたら」と言われる程くたくたになるまで何年も使い続ける傾向にある。金銭的能力があるとしても、それが使える限り使ってやるのがモノに対する礼儀であると考えているし、モノが壊れた時も、公的な場にそぐわなかったり他人に不快感を与えないならば、できる限り直して使うべきだと思っている。

 そうはいっても、私もある分野では有閑や浪費の活動をするし、彼女たちの有閑や浪費の行動が理解できず「未知」を感じている訳ではない。理解しきれないのは、その活動の目的がモノ自体やその使用価値によって効用をえることではなく、消費行動自体や顕示欲をみたすことだという部分である。モノでも人でも対象に対して誠実であることを行動に基本としている私には、彼女たちの思考のすべてを理解や共感をすることは人間性が劇的に変わりでもしない限り絶対に無理なことである。

 普通人間は、何なのか解らないものに対しては、漠然とした恐怖を感じるものである。未知への恐怖は、探求心や代替的な説話でそれを既知へと変換することで克服されるものだが、ブランド品を求めることで自己顕示欲を満足させること、そしてそのために膨大な時間とお金を費やせる彼女たちの気持ちに全く価値を見いだせない私としては、それを既知とし、共感することこそ嫌悪・畏怖すべき対象である。つまり、どのみち怖い。

 そんな決して克服できない恐ろしさに対抗する術は、対象の殲滅か完全無視しかない。

 今回の講義で示された有閑階級の発生や文化の形成といった私にも理解のできる分野からの延長として彼女たちの思考を捉える見方は、多少なりとも彼女たちと共存できる可能性をもたらしてくれる……かもしれない。

 

「消費社会の神話と構造」(6月27日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 講義の中では、50年代、60年代の社会は、平等な物質的安楽が志向され、人々の欲求は画一的・機能的な方向へと向いていた。その後、80年代に消費社会に入ると、十分な豊かさを得た人々の欲求は付加価値と他者との差異化によってアイディンティティを確立するための浪費をし他者以上の豊かさを目指すようになった。今回は、その「差異」に関して私の思うところを述べようと思う。

 「差異」の対義語は「普通」である。では私たちのいう「普通」とは何か。平等であること、他と同じ豊かさを享受することが幸福と考えられていた50年代から60年代には、そこからはずれて行動することはそのまま「普通」の人々から同情されるか、奇異の目で見られることにつながった。この時代には、「普通」の消費・生活は豊かさを示すものとして現れている。対して80年代以降、人々は「普通」から脱却して他との「差異」をつけることで自分の豊かさを表すことに血道をあげるようになった。これは、50・60年代に一般的な安楽が人々をある程度満足させ、「普通」であることが当たり前になったことで、そこへ向かおうとする欲求が薄れていったことがその理由であると思う。そうして、「普通」の価値が下がったことで、「差異」は忌避されるのではなく指向される存在になった。

 私は、この消費社会における「普通」の価値の減少と「差異」への指向は、外見的なものであると思う。「普通」という概念は、講義の中の言葉で表すのならばその時代の「ライフスタイルの美学」であり、様々な「コード」の集合体である。またそれは十年・百年単位で時間が経てば抽象化・体系化されて「文化」と呼ばれることになるものを規定しているとも言える。私が思うに、消費社会において価値の減少した「普通」という概念は、50・60年代の「普通」=「文化」であり、80年代は「多様化」という新しい「普通」=「文化」が発生したのだと思う。

 私がこのように考える原因は、現代の「普通」の作られ方にある。現代の「普通」と「差異」は、報道機関などを利用した生産システムの戦略によって、「流行」という形で作り出されている。生産システムは、当然のことながらより生産を増加させるように、つまりはもっとも消費が増加するようにその戦略行動を設定する。特にそれらが顕著なのがファッション・車・旅行といったステイタス財や娯楽といった分野で、戦略のとなるのは常に大衆である。私は今までの人生の中で、それらの戦略の対象から常にはずされてきた。そういった経験から感じることは、現代において許容されている「差異」というものは「普通」という土台の上に作られているという事実である。確かに、現代は「差異」に対して肝要だとは私も感じる。しかし、それは「普通」の締め付けを緩めることで「普通」の中を多様化して生まれた「差異」に対するものであり、「普通」と違うという意味での本当の「差異」はやはり許容されず否定されたままであると思う。

 

「環境思想」(629日講義)

経済学部経営学科 17030077 千坂瑞希

 今回の講義は、私が今まで読んだ本や映画のことを思い出させるものだった。それらはどれも有名な名作と呼ばれるもので、私の生き方・考え方に強い影響を与えたものばかりである。

 「豊か」であることとは何なのか、その答えを私は常に自分の行動や思考の片隅に置きながら生活している。勉強をする時、人と話す時、買い物をする時、食事をする時、私は常にその答えを自らに問いかけている。

 私の中で、「豊か」とは物質的生活水準の不断の向上のことではけっしてない。むしろ、限定された資源やそれらの不足の中で幸せになること、さらに現在の状況に妥協し満足するだけの精神的余裕を持って自己を律して生きることが、「豊か」な生活であると私は思う。

 今回は、私の「豊かさ」とそのあり方について、私が強い印象を受けた本や映画の一部分を例としながら述べてみたいと思う。

 

・金銭と「豊かさ」

 映画「マイフェアレディ」の中で、詐欺師であったヒロインの父は、博士の紹介で高名な弁論士になる。高額の収入と名声を得て、新しくできた大勢の「友人」や「親戚」とともに自身の結婚式へと向かう彼は、大勢の人を養い人並みに結婚する現在よりも人にたかって気ままに暮らしていた昔のほうが幸せだったとヒロインに話す。

 彼の貧困は、「森の生活」で言われているような自発的貧乏とは違うものである。彼は好んで貧困の中にいた訳ではないし、哲人として生きていた訳ではない。しかし私は、彼が金銭を得ることで失ったものは、哲人が自発的貧乏にはいることによって得るであろう「豊かさ」と同じものであると思う。生きるために必要とする以上の、将来や生活の快適さのための富の飽くなき追求から解放されていることは、どのような人間にも心理的な余裕を与える。

 

・時間と「豊かさ」

 時間をテーマとした作品では、ミヒャエル・エンデの「モモ」が印象深い。エンデは、私が今までで最も強い影響を受けた作家の1人である。私の時間や自由についての考え方の基礎は、エンデの作品によるところが大きい。「モモ」のほとんどの登場人物は、時間を合理的に節約することで時間を貯蓄し、将来「豊か」な生活を送ろうと考える。しかし、時間を最大限効率的に利用するだけその人からは余裕が消え、人間的な「豊か」な生活は失われていった。

 合理的・効率的であることは悪いことではない。だが、それらを追求した結果、空いた時間にまで更に合理的な仕事を入れていては、そこに余裕の存在する余地はなくなってしまう。「豊かさ」を求めた行動が逆に「豊かさ」の存在を脅かすようになるのである。

 

・自由と「豊かさ」

 「マイフェアレディ」の元詐欺師はまた、昔の生活を羨ましく思いつつも今の暮らしから転落することは恐ろしくてできない、と言う。私は資本主義社会の人間のほとんどは、同じ状況になった時には彼と同じように考えると思う。何故なら、一度何かしらの土台の上に立てば、大抵の人間は土台を失うことを恐れるものだからである。空中の楼閣を夢想したとしても、それを実際に建てて更に土台を差しこもうとする人間・真に「豊か」な生活を実践使用と踏み出せる人間は、現実には一握りなのである。

 エンデの短編集「鏡の中の鏡」の中に「ミスライムのカタコンベ」という話がある。登場人物達は、管理された世界から自由になることを求めて反乱を起こす。しかし、いざ自由の世界へと続く道ができた時、その先へと出て行った人間は反乱の指導者の1人だけだった。他の者たちは完全な自由、つまり自分たちを制約してきた今までの基盤が失われることを恐れて、最後には自ら元の生活へと戻っていった。

 これは、エコロジーと生産力中心主義に当てはめることのできることだと思う。エコロジーや清貧や創造的な生活を人間の本質として誰もが評価する。生産力中心主義や消費社会は無駄で、むなしいものとして見られることが多い。しかし、現実の世界でエコロジーよりも消費社会が中心的であるのは、私たちが消費社会といういままでの土台を失うことを恐れて、エコロジーの生活へと進む一部の人間の背を眺めているだけだからではないだろうか。

 

 

 

17030027 多積 麻衣子 

2005/04/11 「大学改革論」について 

 講義中交わされた国公立大学法人化に伴う大学改革論の中心を為すのは「将来を模索する学生に対し、進路を考えるにあたって必要・有用と思われる独特なカリキュラムをくみ試行錯誤する力を身につける」というようなことだった。これに対し大まかではあるが、以下が私の考察となる。

 まず、一般に考えられている大学の役割について考えてみる。専門分野で高度な知識を身に着ける。社会人になるに相応しい振る舞い・技能を身に着ける。というのが、表向きの意義。(単に高学歴だという“証明”を得るための機能が求められていることも多いが、ここでは考えない。)大学は高等教育機関であり、勉学の最終地点だと考えている人が多いのではないだろうか。そうした大学のニーズと、“大学で将来を考える”という改革論の考え方はマッチするだろうか?将来が2年間の教養期間で定められたとして、残りの2年で十分な専門知識は身につくのだろうか?大学院に進めばよいとの声が上がりそうだが、院は学部で学んだものを発展的に取り扱うところなのだから、学ぶ内容が繰り上げられて院に在籍する時間が長くなってしまったら本末転倒ではないか。上記の役割が要求される場合、大学が存在する意義がなくなってしまう。

 以上を踏まえて、そもそも将来設計をする機能が大学に求められているのかという疑念がわいてくる。大学は、将来の見通しが経った後に最終的な知識の集合体として専門知識を身につける機能に特化すべきではないのか?およそ18という年になって初めて自分の人生と向き合うというのもおかしな話だし、高校までの進路決定にあたり、将来の設計のために大学にいくのだ、などという目標を子供に与えてしまった場合、大学に入れば将来が決定するという間違った認識を与えかねないし、それが将来に対する不安の鎮静剤となり、大学入学まで将来を考えることをしない子も当然出てくると思われる。思春期・青年期において人生を憂慮するという貴重な体験を通り過ぎてしまうことになる。そうなると、大学でいきなり試行錯誤プログラムを与えたところで、将来を考える術が身についていないのだから上手く機能しないことも考えられる。将来を考えるステージは各年齢で随時与えられるべきであり、かつ、将来を考えるという作業は望む望まない、にかかわらず社会に生きる人間全てに求められる過程であるので、義務教育の一環に取り入れるべきである。また、大学2年間で設定した将来のビジョンに自分が適応しているかの判断を下すのはとても難しいと思われる。適応性をはかりながら、小学生段階では保護者や教員が補助的に指針を与え、成長に応じて個人の判断のもとに必要な能力・技術を身に着けるべく教育を受けるべきではないだろうか。

 これらの考えをもとに、学ぶ者の質を上げることに特化するのは大学以前の教育機関の役目とするのが良い。その上で将来設計をした人が最終的な知識を求める場として、大学は機能すべきではないかと思う。教育最高機関として、むしろ教育の質、特に講義内容について吟味すべきであり、学ぶ者の知識的欲求を満たすべく水準を高めるべきである。

 以上より、大学改革については教育機関それぞれが連携した策をとるべきであり、記載されているように大学一固体のみで取り組むべき事象ではないと判断する。(1393文字、スペースは含めない)

 

17030027 多積 麻衣子   

2005/04/20「学問とは何か の授業について」 

 今回の授業において印象に残った事象について考えてみる。やはり、講義後半で議論された、選挙権であろう。まず、基本的選挙権。続いて、経済的選挙権、市民的選挙権、公的選挙権、と続く。主に経済的選挙権を売買して、政治的にも経済的にも活動の活発化を促したらどうだ、というのが中核のようだったが果たして選挙権を分割してそれぞれがバランスよく機能するのか?という疑念を抱かざるを得ない。確かに、選挙権一つを与えられたところで私達がその中身に対して求めるものは各々違う。経済の活発化かもしれないし、福祉の充実かもしれない。だから、それぞれに明確な境界線を与えて分割運用するのは画期的な意見かもしれない。けれど、経済的な権利を売買できる、という発想にはリスクが多く付きまとっている気がする。意見発表時にも述べられていたが、経済的にも政治的にも大きな権力を持つ人間が権利買収を進めた場合、この人物の人間性によっては多くの国民に損害を与えかねない恣意的な政治運営がなされてしまうかもしれない。上手く提言できないが、初期段階で規制を設けることによってリスク軽減するという後付理論では、実行に移すのに少し弱い気がする。さらに、選挙権を売買するということは、株式や金融商品のようにそれ自体の価格が変動することになるのだろうか。だとしたら、例えば有力な候補者が沢山いる選挙区の選挙権は高騰し、あまり魅力的でない候補者の地区の選挙権は売りが進む、というような状態もでてくるのだろうか。そういった市場が成熟するならば、選挙権に対する価値に種類が無数に生まれるわけで、選挙権という法の下で平等が約束されている権利に落差が出てくることは問題にならないのか。株式は企業成績によって左右されうるという、基本的に価値が違うものが商品としてとり扱われる段階で平等に取引が成されれば何の問題も生じないが、選挙権は基本的に国民の基本的な人権が平等に保障されることを前提になりたっているのだから、そもそも金融商品には馴染まないだろう。経済的選挙権が自由に売買されても良いと謳われる権利だと仮定しても、権利内容は平等であるべきだ。でも、そうすると売買するための価格変動も起こりにくくなるので、もし売買できる権利になるとしたら、価格は固定されるのだろうか。それでは選挙権市場は成長しないと思うので、やはり権利を売買するという考えには疑問を持たざるを得ない。

 しかしながら、冒頭でも述べた通り権利の中身を明確化し、国民として認識すべき選挙活動への活発化を促すのには、とても画期的な発想ではあると思う。権利を売買可能な商品として扱う、という考えのもとは国民の政治に対する考えを自己のものとして切実に捉えるところにあると思うので、選挙権をもっと柔軟に運用する方法を、金銭を通してではなく別の方法で考えることは出来ないだろうか。それは結局、政治の仕組み自体に根本的な問題を抱えているからだと思うので、選挙権を含め、例えば、投票で国の代表が選ばれるという方法自体が正しい政治運営であるのか、もっと考えるべきだと思う。

 

経済学部 17030027 多積 麻衣子 

2005/05/11 マルクス・エンゲルスの思想について

 本日の講義において中核をなしていたのは主に共産主義の良い面と悪い面についてだが、一見、下層階級の人々を救済すべく、社会を営む上で全ての人々が平等な生活を送れるように労働形態や生活形態を画一化させるといった発想事態は悪くはないものだと思う。が、過去において、この共産主義思想のもと、社会主義政権がおかれた国での人々の生活の惨憺たる状態を思うと、この発想にあまり賛同できないのは多分、私だけではないだろう。もちろん、その政権を執った指導者自体の思想・欲望も相まって、共産主義思想だけが過去の惨劇を引き起こしたわけではないとは思うが。

 思うに、人間は常に多かれ少なかれ、だれでも向上心を持って生きる生き物であり、それによって労働意欲を得、労働過程においてその都度の目標を得たことで更なる労働に邁進するか、得られない者は現状維持を前提として、生活の糧のために行動するのだと思う。共産主義においては、人間にとって大切な部分―つまり、向上心を奪ってしまうため、労働市場(市場が存在し得るかが問題だが、)が劣化してしまうのではないだろうか。共産主義思想における労働形態は、人々が同じ内容を体験できるように労働環のようなものを形成して行うものであるが、それ故に、例えその作業の中で興味があったり得意分野があったとしても、その仕事に対する興味、意欲、知識に対する欲求を一定以上は満たせないようになっており、ひいては人々の生きる糧である向上心を摘み取ってしまっているように思える。どんな社会形態であれ、それを支える人間の労働が根底にあるのだから、労働意欲が削がれることによって、社会が正常な機能を果たせなくなるのはごく当たり前なことではないのだろうか。また、人間の摂理として、向上心が目標・物体だけではなく、周囲の人間を対象とすることも多々あるわけで、人々が平等といった社会形態においては、そこから抜きん出て人々の上に立ちたいといった欲望を持つ人間も当然出てくる。平等でなければならないといった原則がそういった人間を統制してしまえば、抑圧された感情が社会に蔓延し、それが政権を握るごく一部の人間に伝わった場合においてはその者の支配欲を刺激し、それを助長させてしまう危険性は大いにあるであろうし、過去に存在していた社会主義政権が次々と崩壊を迎えたのも、人間の“向上心”が姿を変えて、醜い感情になってしまったことが、大きく関係しているのではないだろうか。

 以上の私の考えをもとに、共産主義のよい面と悪い面を考えてみると、机上の論理としては、このマルクスに端を発するこの思想は平等社会を構築する上で大きな意味を投げかけていると思うが、社会活動の主体となる人間の行動・思想においては同じものを求めることは困難であることや、生活するうえで人々がそこで感じ取るものまでは統制しきれないものであるのだから、物的・視覚的な面からだけでは人々の行動を予測・統制はできないであろうことをもっと考慮すべきであったと思う。

が、これも、私が社会主義政権失敗・崩壊後に育った世代であり、当時の政権下において数々の批判や悲壮な体験を耳にしてきたため、共産主義思想=社会主義政権とそのまま結びけたまま考えてしまうからであって、当時において斬新であった新思想に疑問を投げかけることができたかどうかは分からない。社会主義政権とはまた別の形でこの思想を現実社会に応用していく可能性は大いにあると思われる。

 

経済学部 17030027 多積 麻衣子 2005/05/16

結婚制度の撤廃と自由化について

 徹底した平等化を図るために、机上で編み出された結婚制度の自由化について考えてみた。まず思い浮かんだのは、どうして共産党政権下において結婚自由化が導入されなかったのか、という疑問である。過去のソビエト連邦や中国で結婚についてそこまで政府が介入していたとは聞いたことがないし、隣国・北朝鮮の社会主義政権をみても、一般人民間で男女の付き合いが自由化されている様子はないようだ。どちらかというと、拉致された人の話をニュースで聞く限りは、早めに結婚させて人民統制を図っているように見える。       共産主義の平等化の理念は形骸化して、党幹部や、それに準じるような階級の人達の間で結婚が決まるなど、結婚にはむしろ、歴然たる階級制度が横たわっている気さえする。

 一体、なぜ、共産主義をうたう国で結婚は自由化することがなかったのだろう。私が考えるに、まずは宗教の問題。仏教もキリスト教も、姦淫は犯してはいけないだとか、聖職者は女性に触れることさえ厳しく禁じられており、そういった宗教観念が習慣的に根付いている限り、それを覆すことは相当に難しいのではないだろうか。どの国にも必ず、何らかの宗教が存在しており、(現在の無宗教化傾向にある中においてさえ)淫らな者は社会から排他的な目で見られることが多い。そんな状況下において男女の付き合いを公に自由化してしまうことは、共産主義に懐疑の念を持たせるきっかけを作ってしまうのではないだろうか?と私は考える。中近東に見られる一夫多妻制も、一見男女の付き合いを自由化させているようにみえるが、結婚することが前提となっており、さらに離婚するということはなかなか難しいと聞く。性について開放化されているように見えて、一定の秩序が保たれている。

 次に、子供を社会共同で育てる費用について。制度化する以上、養育に関する費用と人件費が発生してくる。また、マルクスの理想形態とする非定職化された就労がなされると、子育てにもまた一貫性をもたせることができなくなる。(第一、現実問題として親なる人物がコロコロ変わってしまっては、子供としてもやりきれない)もしくは、母親だけは確定しているので、その者が養育に携わるとしたら、養育に関しては相対的に(だれの子か分からないので)男親が責任を負うことは少なくなってくるので、ここで、養育に関して平等の原則が崩れてくる。子供のことを考えるのならば、費用面、責任面から言っても、男女が共同して関与したほうが効率的なのだ。

 以上のことから考えて、資本主義社会はもとより、社会主義社会においても結婚を自由化するには諸事情により負担が大きく、現実に即さないと考える。また、実際には一夫一妻の結婚をする前に恋愛期間が存在し、その期間に男女間においての自由は保障されているので、結婚制度を自由化する意義もあまりないと考える。(離婚も可能なので、結婚後の自由も保障されている)

 よって、社会主義政権下においても結婚についての政府干渉はなされず、従来の結婚観を踏襲する形で(身分や思想により多少の制限はあるものの)自由が許されていたのではないだろうか。共産主義において、平等であることが尊ばれるが、支配者層の存在も鑑みて、また、この結婚問題からみても、完璧な平等社会は存在し得ないことが考えられるのではないだろうか。

 

経済学部 17030027 多積 麻衣子 2005/05/18

マルクスの描いた社会形態について

 私はマルクスの思想の全貌についてあまり知識がない。だから、マルクス=社会主義=かつての中国、ソビエトの共産主義社会、という短絡的な思考しかない。福祉政策や三権分立といった考えを確立したのが彼だとは、思いもよらなかった。

 ガルブレイスは、近い将来、高度な知識と技術を蓄えた巨大企業が市場で権力を得て、能動的に価格調整等に関与していく「生産者主権」の新しい国家形態へと移行してゆくだろうと説いている。確かに、最近の動向として専門的な要素を蓄えた人達が経済界で活躍することが多い。彼らを求める声も大きくなってきている。そういった将来を見据える確かな目を持った人々が増えれば、自然、生産者主権の計画化体制が台頭してくるのだろう。

 ドラッガーは、人類が高度な知識・技術・経験等を蓄えることによって、「知識社会」が到来するだろうと言う。経済を定義するのはもはや資金や資源ではなく、高度に専門化された自由度の高い社会となる結果、現在各国で機能している社会形態(米国の株主主権社会、日本の会社主義社会、ドイツに代表される社会市場社会、北欧の福祉国家、、、)が混ざり合い、その自由を享受する代わりに成功と失敗が共存し始めるだろう、と説く。

 彼らの目には、そう遠くはない未来の社会形態に、社会主義思想が映っている(程度はあるが)。どの先進国にも否応なく迫ってきている少子高齢化。変化の激しくなった雇用形態。だれもが高等教育を享受出来るようになった結果の高度文明。これらが生み出す新たな社会形態が、社会主義と結びついていく。

 ところで、マルクスの思想の基になっているものは、万人が平等を享受できる幸福な社会ではなかったのだろうか?上記の二人の発想からは、社会が平等化されるというよりは、自己の能力を生かせるもの、そうでないものの社会でのあり方にはっきりとした落差を感じる。最近の日本も、貧富の差は拡大する一方である。それは、若者が将来の職に何を望んでいるかをみても大体分かってくる。まず、起業思想が以前よりも広まっており、それをサポートする企業も増えてきている。次に、資格取得熱の高まり。ロースクールやアカウンティングスクールといった、高度な専門知識を養育する機関も出来てきた。それとは裏腹に、社会が求める知識があまりに高度化したために何にも属することのなくなったニートは増加する一方で、この差の広がりはますます広がっていくのだろう。社会主義的な発想を随所に取り入れていく一方で、その政策がますます社会の不平等化を生み出していくという矛盾が生じてくる。万人が能力を発揮できるという平等は、発揮できた者とできなかった者、発揮しようとする者とそうする気がない者という落差を生み出す。一方で、弱者救済のための福祉が充実したとして、それは、公の助けを受けなければならない者と、そうしなくてもよい者、また、受けたくても受けられない者といった落差も生み出す。そもそも、社会主義思想においても、平等など成し得られるのだろうか?万人が平等である必要も、あるのだろうか?“平等”といった観点から離れれば、弱者救済のための福祉政策も存在意義が成り立つし、自由が保障される意義もあるのではないだろうか?近未来において社会主義政策がなされ、一方で資本主義が執られるといった新しい社会形態を生み出すのならば、追求されてきた平等といった観点は捨て去るべきではないのだろうか。

 

 

17030027 多積 麻衣子   2005/06/06

ウェーバー・宗教と社会構造について

  ウェーバーによれば、幸福な人はその幸福を他人と比べて自分を満足させるのに勤しんで、幸せを実感するようになるのだという。また、苦悩に満ちた人は、“使命”を見つけてまっとうすることにより、自分の存在意義=幸福を見出すのだという。なるほど、確かにそうかもしれない。日本に当てはめてかんがえてみた。

先週読んだ新聞の投稿欄によると、遺児に対する“あしなが募金”は、若い人は全然見向きもせず、子連れの母親たちや障害者の人たちが主に募金していったのだという。主旨はちょっとずれたが、自分のあずかり知らぬ所で不幸な人たちが苦しんでいる現実があることを分かっていても、自分は“中の上”くらい幸せだと思っている大半の日本人は、目の前に自分で想起しやすい不幸が起きないと、それに関連付けて不幸な人のことを思いやれないのだ。自分が幸せだから、周りに関心が無い。そのくせ、“中の上”幸せだと思っている私達は、逆にそれだけ幸せに物足りなさを感じている部分で不幸なので、使命をまっとうするべく、さらに幸せになるために、学歴をつみ、社会で出世し、貯蓄して、幸せな老後に備える。また、恵まれない人々を思うことができたとして、彼らに救済の手をさしのべる行為でさえも、自己と対比していかに自分が恵まれているかを確認する機会でしかないであろうし、また、そうすることによって、自己の“徳”を積んだような気になって、周囲の幸福な人たちよりも、自分は優れた人間なのだという認識をするという手続きの一環でしかないのだろう。これは、自分で意識している、いないに関わらず、幸福である人間の意識の根底では必ず起こっているものなのだ。でないと、“可愛そうだな”とか、“悲しい”といった感情は生まれないはずだ。平素の幸せがあり、それと比べて、物事が欠如していたり、不足していたりするから、その当事者に対して初めて、憐憫の情が生まれるのだ、と私は思っている。“手を差し伸べる”という言葉はその最たるもので、 度合いこそあれ、“差し伸べる”方が優位な立場にいることは言葉から容易に想像できる。しかし、もしかしたら、一方では、自分の不幸せな部分を鑑みて、幸せは不幸せがあって初めて成り立つものなのだと分かっているから、それをあがなう意味で、恵まれない人々に救済を施すのかもしれない。

現代の日本は“ほどほど”の幸せに満ちているが、他人と比べて、自分が満たされていない、という劣等感が常に付きまとっている。幸福でも不幸せでもないけれど、飢えに困ったりはしていないから、その点は恵まれている。けれど、日本の社会の中では、自分なんて、といった具合だ。日本人が感じている、“中の上”の幸福度は、諸外国と比べるとあまり高くないと何かの記事で読んだ気がするが、多分、実際にそうなのだろう。ウェーバーの説で言えば、幸福と苦悩の間に立った多くの日本人は他人と比較することによって、優越感という幸せを手に入れるどころか、逆に自分を貶めるようになってしまった。これが、授業中に出てきた“禁欲”に続き、社会の発展に貢献する力になるのだろうが、それは結局、恵まれた人もそうでない人も、同じ末路をたどるということなのだろうか。

 

17030027 多積 麻衣子   2005/06/13

いかに働くべきなのかについて

 はたから見ると自由に生きているように見える人々でも、彼らにとってはそうではないこともあるのではないのだろうか?―講義中、そう思った。

 いくら演技が一瞬一瞬のものであろうとも、1000(1万?)回、ラ・マンチャの男を演じた松本幸四郎さんは、それが毎回新鮮味に溢れた創造の場だと思っていただろうか?1000回も演じたら、それは彼にとっては、平凡な生活の一部になっていたっておかしくない。国会で眠りこけている議員の人たちは、一体何を創造しようとしてあの場にいるのだろうか。毎日毎日が真剣勝負の場なのだとしても、その真剣勝負が毎日絶え間なく続いたら、だれにだって、それは“当たり前のこと”として標準化されていくのではないか?毎日ディズニーランドにいたら、やがて、その自由や快楽に慣れてしまって、それ自体が当たり前になってしまうに違いない。

 だから、人間の行っている活動を、職能によって分類するのは少し違うのではないだろうか。普段の平凡な毎日に、ちょっとした変化をもたらす事こそが、何かを“創始”するということであり、また、その“平凡な土台”があるからこそ、それに対比して革新的なものを生み出すことができるのではないのだろうか。平凡な会社に勤める田中耕一さんが、たまたま間違った薬品を混ぜてしまって、ノーベル賞を受賞するような素晴らしい発見をするようなことだってあるのだ。ある一瞬が充実したひと時に転じる機会は、何も限られた職業の人に訪れるのではなく、普段は単調な、生活に追われる日々を送っている人々にも訪れてしかるべきである。世の中で売られている大半のものは、実際に使用する人々のありふれた、平凡な生活の声をすくい上げて世にうまれてきたものだ。だから、自由がなにかを生み出すのではなく、平凡で単調な日々の中で生まれた、“自由”こそが、私達の生活に創造性を与えているのだ。芸術家や学者が世の中にあふれていたら、それは“自由”で“充足”した職業なのだという発想は育たなかったと思われる。女優という職業は、一握りの人間が、“一般の平凡”ではなく、“ちょっと特異な平凡”を生きているから充足してみえるのであって、皆が“ちょっと特異な平凡”を生きることができたら、それは“一般の平凡”になってしまう。世の大多数が平凡を生きていてくれるおかけで、創造的な一面が輝くことを忘れてはいけないのだ。だから、レジュメを通して感じられる“自由の優位性”は、常に初心を忘れずに活動することができる人間のみが享受すべきであり、本来は平凡で単調な日々が創造性を支えていてくれるということは、常に心に留めておくべき大切な事項なのではないかと思われる。それが実現されたとき、初めて、真の意味で、soebios、あるいは職人とテクノクラート、といったものを対等に対比することが可能になるのではないのだろうかと思う。

 

17030027 多積 麻衣子   2005/06/15

現代社会について

 現代社会は、つい最近まで連呼された自由に疲れて、何か秩序を求めているかのようにみえる。具体的に、日本ではどうだろうか。人々の行動を見てみるならば、会社では能力を測る物差しとして、TOEICの点数を取ってくるよう求めるし、自由業と見做されてきた医者や弁護士という仕事は、コミュニケーション能力を問うため適正試験が課せられることになったという。大学生は資格就職に走り、アカウンティングスクールやロースクールという資格に権威を与える機関が次々と出来るようになった。世の中は、自由に疲弊しているのではないだろうか。

 こうして考えてみると、現代社会(先進国)は“過剰抑圧”のもとに経済成長を続けてきて、それが“過少抑圧”のもとでそれを低迷化させてきたように見える。もちろん一概には言えないが、多分、人生の計画、強いては社会成長の見通しを、大部分の人々は自分で設定することができないのだ。だから、何かの権威によっかかって生きてゆくほうが、遥かに楽だし安定しているから、皆その方向に流れる。そのくせ、自由自由と騒ぎ立てるのも、自分の人生に満足できない不満を何かのせいにするのが楽だからだ。人生の勝ち組になりたいのならば、小数の人間のみが可能な、確固たる自信の確立とそれに見合うだけの努力、能力を身に着けなければならないのに、だ。マルクーゼやルター、ヒトラーが言っていることは、人間の心理を言い当てているのだ。

ただ、“過剰抑圧”と“過少抑圧”が交互に台頭するのはいつの世であっても、支配される側になる平民の間にのみ起こることであって、名誉や権利、能力にあずかっている人間にとってはそんな循環はどうでもよいことなのだ。彼らは自由と権力を同時に謳歌し、人生に対して充足感があるから、周りがいくら騒ぎ立てようとも自身の地位さえ脅かされなければそれでよいのだ。だから、最近の中国で起こっている共産党政府に対する暴動も貧困した農村部で起こるものであって、都市部では起こらない。自由への反動は、いつも下層部で起こるものであって、その結果おこる社会構造の変革は、下層部によってもたらされる。

これを現状の日本に当てはめて考えてみる。80年代後半からつい最近まで、日本は皆がそこそこの幸せと不幸せを繰り返し、経済的にもほどほど恵まれた国であったから、政府に対して不満はあっても暴動を起こしたりはしなかった。一昔前の労働過多から解放され、ある程度自分の時間を有用に使う自由も確保できるようになってきたから、会社や学校である程度規律を要求されても、憎しみや怒りを抱くこともなかった。人々は更なる自由を求めて、やれ能力給だ、やれ才能だと個性を叫び始めたけれど、それに対して強い姿勢で望んだりはしない。皆、一方では自由に憧れてはいるが、一方では自分を統制してくれる社会構造の存続を望んでいるからだ。だから、これからの日本は“過剰抑圧”体制でもなく“過少抑圧”体制でもない、新しい時代が切り開かれるのではないだろうか。日本は貧富の差が徐々に開かれつつあるが、経済的な勝ち負けではなく、人生に満足できるか、自身を社会の中で肯定できるか、これからはそういった人生の“質”が問われる時代になるのではないだろうか。

 

17030027 多積 麻衣子   2005/06/20

議論の公共性について

 外へ意見を発信するための力を身に着けるために、外的な自分の世界―つまり、独立した部屋を与えられることは、それほどに意味を持つことなのだろうか。それは、自己を内省するという機能をある程度は与えてくれるが、それ以上には意味を持たない。一度自己の箱を作ってしまうと、人間はそこから外の世界へ出かけてゆくことが難しくなる。それは動物が本能的にテリトリーを作って排他的空間の中で自分の命を守っているのと同じく、人間は自己の居場所を確保してしまうと、長らくそこに居座り続けようとしてしまう。外で他人と混じり、自己を通そうとするのならば、最初はいつでも、自分は常に一人であるという自覚とともに、それに耐えられるだけの強さを持っていなければならない。

 だから、その力を養うためにも、特に幼少期においては一人でいる空間をもつべきではないのだ。家族という他人と交わり、そこから徐々に遊びを通じて社会を学ぶべきであり、内省よりかは自身と他人との関わりを学ぶべきであるのだ。その集団生活の中で芽生えたものこそが自我であり、それが目覚めたとき初めて、自己を内省し、意見を形成することが可能になる。経験は知識より優先されるべきであり、経験を踏まえた言葉は机上で練った考えよりも強い説得力を与える。ある程度の経験がなければ、いくら外部の情報を取り入れても意味を持たない。内省は集団の内でもすることができる。情報収集は他と交わるほうが容易く入手できる。だから、部屋などなくてもよいのだ。

 外で遊びまわる子供と、引きこもる子供とどちらに健全性を感じるか。彼らのどちらに社交性を感じるか。考えはどちらのほうが多角性を養うことができるか。親が仕事で遅く一人で夕食を食む子供と、家族で食卓を囲むことができる子供とどちらが心が豊かになるか。こたえは明瞭である。議論する力を伸ばそうという観点に立つならば、自己の世界に閉じこもることは非常に危険なことである。

 議論する力とは、常に集団の中にあって養われるものであり、自己を内省する場合であっても、それは他の中での自己の存在を見つめなおす作業であるうちは、それ自体が集団の中で行われるべきであるのだ。

 私が思うに、一人、部屋で意見を形成することこそが社会的優位性を保つべきだとの見方は単にブルジョア思考の思い上がりであるだけだ。情報収集や情報分析、意見形成等はその段階から集団に属する空間で行われるべきであり、その限り、個室での作業が許されると考えるべきだ。独立した個人の意見を他空間に持ち込むのではなく、集団という基盤をもった組織体の中でのみ、人間は自己の意見を他人のそれと戦わせることができる。よって、公共の場で議論をする力を養うためには、それ以前の段階から集団に属していることと、それに基づいた意見形成が不可欠要素ではないだろうか、と考える。

 

17030027 多積 麻衣子    2005/06/22

現代人は有閑階級に憧れているか

 近代までにおいて、人々を労働へと駆り立てていたのは“裕福”で“優雅”で“ゆとりある”、いわゆる有閑階級への憧れであったのかもしれない。正確に言えば、日本では近代までがその時期にあったわけだが、未だ発展途上である国々ではなお、有閑階級へ対する憧れが強いかもしれない。(春休みにタイに行ったとき、タイ人とカンボジア人に聞いたら、彼らの夢はとにかくお金持ちになることだった。)比べて日本はどうかと言うと、周りをみても特に有閑階級(俗に言うならセレブに近いかもしれないが)になりたいと本気で言っている人はいない。日本は全体的に、食べるに困らない程度には豊かになり、それから先のライフスタイルの豊かさを競い合うようになってから、手に届かないくらいの豊かさや権威、教養を手に入れるよりは、身の丈にあった中で豊かになりたいと思う人々が増えてきたように思う。要するに、カントやウェーバーなどよく知らなくてもいいし、クラシックや絵画にも特に興味がないし、知らなくても生活に困らない。それよりかは旅行やグルメやファッションをほどほどに楽しんで、小金持ちな生活を送りたい、と思っている人がうようよいる気がするのだ。精神的な豊かさはあまり求められていないのだ。それに、その生活を手に入れる方法さえ、がむしゃらに働くよりかは、“自己実現”をしたいと思っている人のほうが現代の時流からして好ましく思われる傾向にある。たまたま、望んだ職業が有閑階級に属する人もいるし、そうではない職業を目指す人も沢山いる。だから、現代の日本社会において、有閑階級の人々は、大衆から見て“わあすごい”とか、“いいわね”とは思われても、羨望と妬みを買うくらいの強烈な存在ではないのだ。ただ、小金持ちの間では熾烈な小金持ち争いが行われていて、今ではだれでも手に入れることが可能になってしまったブランドものや、だれでも行くことが可能になった大学で、中身が空っぽなまま学歴を手に入れることが流行るようになった。その時流に乗れなかった人々が小貧乏になり、現代では小金持ちと小貧乏が躍起になって争う時代になったように、私には見える。だから、貧富の差が開いていくとはいっても、所詮その程度であって、平安時代のような貧富の差が開くわけではないのだ。ヴィトンとユニクロ、高島屋とジョイ、くらいの差なのだ。そして、大半の人々はこれらの間を行き来している。

 このような社会では、もはや、有閑階級は人々の労働の原動力にはなりえないだろうし、また、有閑階級に属する人々が羨望を受けるに値する価値を持たなくなったようにも思える。昔の小説や歴史に登場する有閑階級の人々には、威厳、というか、平民と比べて歴然たる品格が漂っているように感じる。夏目漱石のこころに出てくる、隠遁生活をしている落ち目の“先生”にだってそれを感じる。一体、日本人はその大切なものをどこで落としてしまったのかは分からないが、堕落してしまった世の中が誇りを取り戻そうと思うのなら、再びあるべき姿の、人々の憧れと敬意の対象になるような、有閑階級が復活するべきなのかもしれない。

 

17030027 多積 麻衣子  2005/06/27

差異は幸福度を測る物差しなのか

 まず、消費活動を行う際に“差異”が個人に表れて、それがその人の幸福を規定する、ということについて考えてみる。本日の授業で受けた印象としては、消費を行う際に、社会に存在する標準とは違った“差異”を生み出すことが幸福の度合いを決める、という感じがしたが、これは、選択するモノやサービスに対しての“差異”ということなのだろうか。例えば、それを購入する場所や価格、状況なども、消費する上では満足度を左右するのではないだろうか。同じヴィトンバッグを購入するにも、体育館などで時折卸売りされる中を、先着争いをしてやっとの思いで手に入れるのと、海外旅行で出かけた際、優雅にフランスで手に入れるのとでは大分意味が違うだろう。同じ500ミリのペットボトルの清涼飲料水を生協のバリュー価格で買うのと、自販機で買うのではどっちが得した気になるだろう。同じものを購入するにも、そのときの状況やその人の感じ方一つで、満足度は大分違う。消費の“差異”は確かにその人の幸せを規定する、一つの物差しにはなりうるだろう。加えて、他人と違うものを手に入れたい、と思うとき、その人を取り巻く消費時の外的要因もまた、“差異”を生み出すのではないか、と考える。

 ところで、以上のように考えてみると、生産・積極的>消費・受動的、という公式は成り立つのだろうか。確かに、社会市場に予め存在する財・サービスから選択して消費する、という行動のうちでは“差異”にいくらこだわっても、消費、という活動である限りは社会を超えることはできないであろう。が、消費においてあくまで“差異”にこだわり、社会市場に存在しない財・サービスを欲求する個人が存在するとき、その人の欲求は受動的であるといえるだろうか。彼は消費行動に対して、明確な個人の欲求を描いているわけであって、そこには与えられたものを選ぶという後ろめたさは存在しない。彼のその欲求が彼を生産活動へと誘うのならば、消費が受動的な一面ばかりを定義しているとはいえないのではないだろうか。よって、生産が消費に勝る社会的行動であるわけではなく、消費と生産が環を成して社会的活動を規定している、と考えてはいけないのだろうか。

 また、社会全体の人々が消費行動によって幸せを感じているわけではない、という点にも注意しなければいけない。消費の積み重ねこそが余裕=裕福、の表れであるというのは、その個人が経済的に満たされることこそが幸せだと考える場合においてのみ機能するものであるはずだ。人間全てが経済活動というゲームの参加者ではないからだ。

 結果、消費における“差異”は社会で経済活動を営む人間に限定して幸福度を測る分には有効に機能するが、それはその人を取り巻く状況によって消費活動以外のものによっても大きく変動しうることと、それは社会に存在する一定部分の人間の行動パターンにおいてのみ適用できることがわかった。

 人間の幸せを、経済活動だけで定義付けするのは、人間自身の、経済に対する過信の表れではないのか。それは、ある程度資力ある豊かな人間にしか適用されない法則のようにもみえ、豊かになった私達の驕りのようにも思える。

 

17030027 多積 麻衣子 2005/06/29

貧乏は美徳なのか?

 最近、原宿あたりに現れる一定のファッションの女の子たちを、“かまやつ娘”というそうだ。彼女たちはダボダボで腰まで下がるジーンズを履き、何枚かの服を重ね着していて、一般にダラダラした格好の女の子たちを指す。要するに、あまり女の子らしくないのだ。札幌にもこの手のファッションは流行っていて、バーゲンのこの時期に街に出れば、必ずこの格好をした子に出くわすだろう。このファッションは美容師やネイルアーティスト、フリーターといった、一般に社会的地位は高くない人達の間で確立され、今に至るという。彼女たちは一般に、高級ブランド熱とは離れたところで独自の文化を築いている。自分にはお金が無いことを分かっていて、敢えてブランドを求めたりしない。それはよく言えば、古着を取り入れて重ね着することで“個”を表現し、身をわきまえた生活をしているのだといえるかもしれない。が、本当のところは違うのだ。彼女たちは勉強についていけない劣等感のなか学生生活を終え、社会に夢見ることが出来ないまま大きくなった。結果、手近で実現できそうな“職業カテゴリー”を選ぶことで保身を図り、向上心を持たずにのうのうと暮らすことを選んでいる。社会の役に立てるとはてんで想像出来ず、向上心がないからブランドを持って、自分をよく見せようと思う気もない。お嬢様ではないし、そう振舞うことも出来ないので、女らしいラインの服は着ない。―と、いうわけらしい。

 彼女たちは決して特別なわけではなく、今や全国区となったこの服装は大学生の間でも結構見かける。ブランドに過剰反応を示すのは確かに格好悪いし、そういった人たちを軽蔑するまなざしは確かに存在する。が、かまやつ娘ファッションを揶揄する声は、今のところ耳にしない。多くの若者は、不確定の将来を憂いて社会に不満をもっているから、かまやつ娘ファッションに透けて見えるそれを非難できないのかもしれない。

 現代の私達は、貧乏ではないがブランドものは買えない。裕福でもないのに自由な時間も心もない。それをなぜかと考える力もなければ、宙ぶらりんから抜け出す創造力も気力もない。中途半端すぎて、何もできないのだ。社会も中途半端にお金を持っている人には救いの手は差し伸べてくれないから、今の日本にはアメリカのようなはっきりとした援助(奨学金などの夢実現の手伝い)はない。中途半端なばかりに、私達の心はどんどん貧しくなる一方である。夢を見ない若者が、どうやって国を豊かにしていくのか。どん底貧乏を知らなければ、人は豊かにはなれないのだ。だから、貧富の差が激しくなってゆく日本に、私は密かに期待している。中途半端から金持ちになれないのなら、いっそのこと貧乏になってしまえ。そして、そこから向上心をもって這い上がってくる人間こそが、社会を正常化させる力をもっていると思うのだ。

 どん底貧乏になることすら許されない今の日本で、貧乏くさい金持ちにしかなれない人たちは、金持ちに見せたいという、見栄、という名の向上心を持ち合わせているだけまだまし。私は貧乏です、と開き直り、そこから抜け出そうともしない“かまやつ娘”の存在のほうが、実はとてもやっかいな存在のような気はしないだろうか。

 

 

418日(月)経済思想講義レポート

17030042 経営3年 松島 なほ子

「ウェーバー『職業としての学問』についての講義を受けて」

 私は今日の講義で、学問とは何か、自分が今学問しているのはなぜなのかと言うことについて一度振り返る機会を与えられたと思う。講義では例として学問すると言うことを7つのタイプに分けていたが、この中で自分はどれに当てはまるのか考えてみた。

 まず私が今最も興味のある分野は環境経済学で、将来は多数ある環境問題を経済学の面からサポート、解決できたらよいと思っている。ここで自分は今日のレジュメ4枚目で言うタイプF、社会派にまず振り分けられたと思う。環境経済は社会と密接にかかわる学問のひとつであり、例えばダイオキシン問題ひとつをとったとしても、化学、生物学、ミクロ経済学、微分積分学、統計学、法律、社会などさまざまな知識が必要となる。また海外の文献や報告書から資料を得るためには英語やドイツ語も知っておかねばならない。環境経済はダイオキシン以外にもさまざまな課題を抱えている。自分は今までこの北大で1年間全学教育科目を、もう1年間は学部専門科目を学んできたが、これだけでは環境問題について資料を読むということはできても、自分でその問題の解決策を見出すまでにはいたらないであろう。私はもっと知識を得たい。特に化学、生物分野と法律の知識が高校生レベルでとまっているため、理系、法学分野の知識をもっと身に付けたいと思っている。理系の知識がある程度あれば、仮に将来自分がダイオキシン問題を扱うことになって虚偽の情報にぶつかったとしても、自力でその情報のうそを見破れるかもしれないからだ。また法律もある程度知っておけば、問題解決の選択肢が増加する場合もあるだろう。これはレジュメで言うタイプEの学者主義に通ずるところがあるのかもしれない。学者と言えるまでの専門的な知識を一つ一つの分野で身に付けるには大変時間がかかるだろうが、環境経済は理系と文系の問題が複雑に絡み合った学問であるため、理系文系の垣根を作らないほうがよいと思う。しかし現実問題として私は家庭の事情もあって後2年大学生活を送ったら一般企業に就職するだろう。そこで営業担当になったりしたら私は自分のやりたい環境経済とはかけ離れたことをまなまねばならないだろう。そこでの営業についての勉強は、自分にとって完全に収入を得るための手段となるだろう。しかし私は社会に出て働いてみたいと思っている。もし自分がいま親に無理を言って大学院に行かせてもらって環境経済学者になっても、周りは似たような大卒の生徒ばかりで、価値観など実社会で働く人々と異なってしまう恐れがある。そこで4年間大学生活を送り、5年以上は社会で働き、それから大学院へ行ってもよいのではないかと最近は思い始めてきた。社会に深く根付いた環境問題を、実際社会に出ないで学ぶより、むしろ汚染にかかわる企業の視点に立ってみたりしてから学んだほうが知識欲も深まるのではないだろうか。

 このように私は今後自分の人生で学問を続けたいと思っている。時に収入を得る手段として勉強し、それが学問と言えなくても、のちに学問するための資金と経験を得られるのなら、そのような期間があってもいいと思っている。

 

経済思想講義レポート 17030042  松島なほ子 516日締切り

511日講義 マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」

 私はこれまで「共産主義」という言葉を聞くと、狂気国家のようなイメージを漠然と抱くだけで、実際に共産主義社会の仕組みを知っているわけではなかった。今私が生活している日本は資本主義社会であるが、これは共産主義国家が理想とする社会とどこが違うのだろうか。まず、資本主義では物の生産をするにあたって分業が行われる。分業は人間達が自然成長的な社会に住む限り、活動が自由意志的ではなく自然成長的に分割されている限り、人間自身の行為が疎遠な対抗的な力となり、その力を支配するのではなく、この力が自身を押さえつけるということの最初の証拠であると定義されている。これに対して共産主義では、各人は固定された活動範囲を持たず、それぞれの好きな部門で自分を発達させることが出来るのであって、社会が規制しているのは生産全般である。だから共産主義では「サラリーマン」や「教師」といった職業が存在せず、その日その日やその時間ごとによって自分のやりたい仕事をするのである。

 この共産主義の仕組みの上では、人はさまざまな仕事を好きな時にやればよいわけで、資本主義社会における分業は人の自由を奪うものだと考えているようである。私の考えとしては、確かに産業革命以降に本格的に現れた分業は、ベルトコンベアーで流れてきた部品を、自分は今何のどこの部位を作っているのかということもわからず組み立てるため、まるで自分自身が機会の一部になったような感覚を引き起こすであろう。おそらくそこからモノ作りの喜びを得ることは出来ない。しかし先ほどの分業の定義はこのようなベルトコンベアーの単純作業のことのみを指しているわけではないらしい。共産主義と資本主義を比較した時に相違点として挙げられる分業は、資本主義社会の「階級」や仕事によって人の専門を分ける「職業」のことをあらわしており、広い意味での分業といえるだろう。

 ではこのように分業を広い意味でとらえた場合に、分業から自由を得ることが出来ないと一概に言えるだろうか。自分をある工場の製品製造過程で使われる機械の歯車だというように、社会という仕組みのなかで何十年も同じ仕事をしていると、まるで自分が社会という工場の会社という機械で動きつづける歯車で、歯車は生産の喜びを感じることもないと感じることもあるかもしれない。そして自分は不自由な存在だと思うかもしれない。しかし働くということは何かしら機械的な行為をせねばならず、共産主義で昼間農業をした後夜は思想家になり、農業が出来ない冬場などは家の中で食べていくための内職のような仕事をする、という人がいたとする。例えば教師という職業の人から見るとこのような生活は自由な生き方だと思うかもしれない。しかし農業だって教師だって、結局は何らかの単純作業の繰り返しではないだろうか。しかも職人や農業のような自営業よりも教師やサラリーマンのほうが給与が高い場合が多い。日本人が自営業より会社員を選ぶのは、会社員のほうが給料がいい分自由もより多く得られると考えるからではないか。私は共産主義は社会全体が自給自足的なふうにも見え、このような社会だと貧困が社会に蔓延し、もっと楽をして生きたいと思う人は悪事を起こす可能性もあると思う。  

私は共産主義の骨組みを理解したと同時に講義を受けるまでの狂気国家のイメージはなくなり、共産主義は本来自由を求めることが最大目標の思想だったことがわかった。しかし共産主義で国家を成立させることはやはり難しいのではないかと思った。

 

 

経済思想講義レポート 17030042  松島なほ子 518日締め切り

516日講義 マルクス『経済学・哲学草稿』

 マルクスは前回の『ドイツ・イデオロギー』の時と同様に今回も資本主義批判をおこなっている。そのなかでも特にイギリスの労働者についての言及が多い。資本主義社会での労働者の扱いは皓だ。労働者は社会の冨が減退していても増進していてもけして楽になることはなく、彼らの価値は機械と同等かそれ以下にまで転落する。また競争市場社会では人々はやりたいようにモノを生産し運の良いものが利益を得る。彼らは自分の所有欲を満たしたいがため敵対的になってゆく。今日の講義の中で先生が例としてあげていた人は、昔のイギリスのように低賃金ではないが、日々の睡眠時間が4,5時間でそれ以外の時間は仕事に没頭している「エリート」の労働者である。彼の賃金はけして安いわけではなく、生活に余裕が持てるほどである。しかし仕事中心で生きていると、自分や周りの人間の内的世界が失われていることにふと気づいた。マルクスはそれが資本主義だと言っている。どんなに仕事を頑張って給与を多くもらえるようになっても、人間としての自己が失われれば、幸せになることはできないという。こうした所得のための手段化された労働から抜け出すために、彼は革命を起こそうとした。目指すは共産主義社会への移行である。しかし私は共産主義社会が所得のための労働のない社会だとはいえないと思う。共産主義でも人は働かなければならない。食べていくためである。だから資本主義でも共産主義でも人々の労働の理由は所有欲を満たすためだといえると思う。ただ共産主義での労働者は自己を失うことはなく、類的存在として生きていける。私は今日の講義を聞いていて、この類的存在という聞きなれない言葉の意味がはっきりとわからなかった。今もはっきりとしたわけではないが、類的存在とは、所有欲のため敵対心まで持つことも、自己を失うこともない人間ではないだろうかと自分なりに思っている。

 さらにマルクスは草稿の中で私的財産について述べている。授業でも話題が出たが、マルクスの言う共産主義社会では結婚制度が廃止されるらしい。私は正直この思想を聞いてそれはマルクスが個人的に理想としている社会ではないかと思った。前回の講義の中でマルクスは何人もの女性とつきあっていたというような話しがあったと思うが、一度に何人もの人と付き合えたら嫉妬などに悩まなくてもいいと思ったのではないだろうか。また彼が逃亡生活をしている時も、自分の奥さんは身の回りのものを売って生活していたのに、彼の金遣いは荒かった。私はこのような金銭感覚のない人に理想的な経済思想を考えられるのだろうかということがずっと疑問である。

 マルクスの人間性を批判してしまったが、現実問題はどうであれ彼がイギリスの労働者階級に目を向け、彼らを救おうとしていたことはすばらしいと思う。そして共産主義という少々粗い理想社会を革命の柱として打ち出したことも、その時代の労働者達の仕事環境があまりにも劣悪で、革命が緊急を要するものだったためかもしれない。私はマルクスの言う結婚制度の廃止も、社会の認識と教育によって実現できるだろうと思う。ただ昔から一夫多妻制の社会では当たり前のことも、そうでない社会から見ると異常なことに見えても仕方がない。このようにマルクスの革命では、価値観などの社会の常識を変革させることが最も重要で難しい問題なのではないかと思った。

 

経済思想講義レポート 17030042  松島なほ子 66日提出

518日講義 マルクス『ゴーダ横領批判』

この講義の主旨は、簡単にいえば「マルクスの言っていることはどれだけ良くてどれだけ悪いのか」ということであった。これまでの講義も含め、自分はマルクスの思想に対して否定することがほとんどになってしまった。というのは、私はマルクスは社会的弱者である労働者階級を開放するために思想を練っていたという点にしか賛成していないからで、具体的なマルクス主義の内容、結婚制度や分業の廃止に対しては反対している。自分がここまでマルクスを否定してしまうのは、資本主義社会に生まれたからかもしれないと思った。幼い頃からの教育というのは人の性格や考え方に深く根付いてしまうもので、もし私が共産主義の社会に育っていれば、資本主義は人を機械化させてしまう野蛮な社会に見えるのだろう。

ここで今回の講義で出てきたマルクスの思想を、先ほどの育った社会性の影響も考えて、もっと中立的な立場から見ることを心がけ賛否を論じていく。今回共産主義社会の権利、として紹介されている「労働証明書を紙幣の代わりとして使う」という提案についてまず考えてみよう。これは社会的労働日は個人的労働日の総和であるから、個々の生産者はこれこれの労働を給付したという証書を社会から受け取り、この証書を消費手段として使う、というものである。さてこの労働証書の長所としてまず何があげられるだろうか。ひとつは不平等な給付がおこなえなくなるという点。異なった仕事の給料は様々で、社会全体で仕事に対する時間価値のようなものを一律にしてしまえば、不平等な雇用もなくなるのではないかという考えである。これはマルクスの生きた社会に当てはめるといいアイデアなのかもしれない。今自分が暮らしている社会は最低賃金が決められており、各都道府県ごとに多少の差はあるものの、ほぼ全国一律で自給が支払われている。労働時間だって法律で決められている。だから今私にこの提案を投げかけられても、そんな証書なんて作る意味はないのではと思ってしまう。しかしマルクスの生きた時代、私が中学の頃社会の教科書で読んだ内容だが、「労働者の扱いはひどいもので、どんなに長時間働いても給与は上がらず、まる1日働いてパンが買える程度?(ここははっきり覚えていないが大変安かった)しかも遅刻をすれば給与の4分の1をカットされる」というふうに今の社会からすればむちゃくちゃな仕組みだったと記憶している。この時代に労働証書を作るということは労働者にとって吉報であり社会全体では革命的な考えだったのではないだろうか。奴隷のように扱われてきた労働者が、働いて、その分の賃金を正しく得ることが出来るようになるのである。この仕組みを現代日本社会に当てはめれば、「いくら仕事を頑張ったって働いた時間が同じという理由で頑張っていない労働者と同じになってしまうからよろしくない」という意見が出るはずだ。だがマルクスの時代は勝手が違う。仕事を頑張らなければおそらく首になるため頑張るしかない。仕事の出来不出来に多少の差はあるだろうが、ほとんどが単純労働のため、現代の営業マンのようにはっきりと差がつくことはないように思える。またもし出来に差がつくようであれば、そのぶんを考慮して給与にプラスされる仕組みを作れば問題も少なかろうと思われる。ただここまで考えてみて、これでは資本主義社会と同じなのではないかと思われてきた。そう考えると作業の出来不出来に対するボーナスはないほうがいいのだろうか。まだ疑問が残る課題である。

 

経済思想講義レポート 17030042 松島なほ子 68日締切

66日講義    ウェーバー『宗教社会学論選』

今日の講義は宗教社会学についてだった。今までのマルクスの思想についても時代が現在と違うためか抽象的に思えたが、今回の講義はさらに抽象的といえるものであった。古代、宗教とは今のようにキリスト教や仏教といったふうではなく、今でいう呪術のようなものだったらしい。それが何百年かのときを隔て、1619世紀ごろ、宗教として突如人々の生活を統治するまでになったものもある。この頃の宗教はというと複雑な社会の内側までをも内蔵していた。西欧近代資本主義、日常生活の全般の合理化、同朋倫理、精神、そして戦争である。ここでウェーバーの『宗教社会学論選』から2.世界宗教の経済倫理について触れてみる。まず世界宗教とは「多数の信徒を集めることの出来た、宗教的ないし宗教的に制約された生活規制の体系、すなわち、儒教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教、この5つの宗教倫理」及びユダヤ教、とある。また宗教的「経済倫理」については「宗教の心理的なプラグマーティシュな諸関連のうちに根底をもつ行為への実践的起動力」とある。世界宗教のことはわかったが宗教的経済倫理は結局どういうものなのかこの文だけではよくわからない。もう少し読み進めていくと、経済倫理は、純粋に固有な法則性を持ち、かつその尺度は明らかに経済地理的なまた経済史的な諸事情によって高度に規定されている、とあった。ここでは生活様式が宗教によって規定されるという面が経済倫理の決定的要因の1つであるということもまた確かである、という文章もある。生活が宗教によって影響を受けるほど、社会の隅々まで入り込んでしまった宗教とは、当時の人々にとってどのようなものだったのだろうか。自分は特に、宗教とはほとんど無縁となってしまった日本に現在住んでいるため、自分の信じる神のために命をかけて戦ったり神を侮辱されて怒ったりする感情がよくわからない。ほとんどの神が争いを好まないものであればよいのだが、世界宗教の神々はなぜ人々に敬われているのか私は知らない。自分と少しは関係のある仏教はまだ平和的なほうの宗教ではないかと思っているが、それでも仏教徒とヒンドゥー教徒が領地について論争をすれば、スリランカのように争いが起こってしまうだろう。有名なキリスト様については私でもいくらか知っているが、弱者を助け、隣人は友達という考えを持つ人物のはずである。それなのにキリスト教徒の人は過去の歴史の中でも、そして今でも戦争を重ねてきた。何故なのだろう。私は幼い頃からこのことが疑問だった。

今日の講義を聴いていてもこの疑問は解決しなかったが、レジュメを見ていると愛についての記述があったので私は新鮮さを感じた。宗教と愛は何の関係があるのか、と興味を持ち読み進めていくと、愛は救いの宗教的昇華だとある。マザー・テレサの考えのことを言っているのだろうか、ともおもったが、それではなおさら何故宗教によって戦争は起こってしまうのだろうか。この先の講義の中でこの疑問が解決できることを願う。

 

経済思想講義レポート  17030042  松島なほ子 613日締切

68日講義 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

今日の講義で最も印象的だったのは、受験勉強から大学生活、戦後の日本経済からバブル時代までの流れが同じだという比喩だった。そして同じようにこの流れを組んでいるのがプロテスタンティズム、近代資本主義から富の時代への過程であるという。この過程において宗教改革は、教会の支配を排除するのではなく、家庭生活と公的生活の両面から人々に「規律」を与える役目を果たしていた。

ここでプロテスタンティズムの創始者であるルターと宗教改革をおこなったカルヴィンのそれぞれの考えについて考察してみる。まずルターの天職観念とは、神自身との神秘的統合を最高の宗教的経験として追求する、という考えである。実態的な感情、つまり信仰者の精神が現実に入り込むという感覚を追求するものであった。これは修道院で隔離され禁欲的な生活をすることにより善行をつむのではなく、天職に就き世俗的な生活をする上でも、神が正しいと認めればそれでいいというものである。一方カルヴィンの考えは、神が彼らのうちに働き、それが彼らの意識にのぼる、つまり彼らの行為が神の恩恵による信仰からうまれ、さらにその行為の正しさによって信仰がまた神の働きであることが証明される、というものである。この行為主義と呼ばれるカルヴィンの考えは、自分の仕事に熟練することで神に近づこうとするものであった。私はここで、ルターとカルヴィンの思想について、2人とも方法は違うにせよ最終的には神に近づこうとしていることがわかったが、なぜ神に近づくことを望むのかが疑問である。この疑問はひとまず置いて、カルヴィンの考え方は例えていうなら現代の熱血サラリーマンの印象を受けるため、中世のヨーロッパでどういう受け止め方をされるのだろうと考えた。しかし彼の考えはピューリタンに受け入れられた。カトリック平信徒からすればこの行為主義は独自の性質である。何故ならカトリックの倫理は心情倫理であり、善行の非体系的な羅列に過ぎないが、カルヴィニズムは組織にまで高められた行為主義を体系化してゆくからである。生活態度の全体にわたって一貫した組織性や計画性が取り入れられるということが、当時の近代資本主義の流れにぴったり当てはまったのだった。そしてカルヴァン派から発生したイギリスのピューリタニズムは、天職理念の中で最も首尾一貫した基礎付けを示していた。この代表者はバクスターで、彼の考えでは時間の無駄な浪費が最も重い罪である。これはそれまでの「宗教」の概念からしてみれば宗教家の思想ではなく実業家の思想である。このバクスターの考えが受け入れられるということは、然るに時代の追い求めている精神が神の国を求める激情から醒めた職業道徳へと解体し始めたという意味だったのだろう。そして宗教的根幹が徐々に生命を失って、功利主義的現世主義がこれに代わるようになったとき、孤立的経済人が現れたのであった。

私は神に近づきたかった中世ヨーロッパの人たちの気持ちはわからないが、この宗教改革から富の蓄積時代の流れをみると、人々は次第にただ神に祈るだけでは貧困から抜け出せないことに気づき、神に近づく国家を目標に、禁欲的で規律を重んじる生活へと徐々に移行してゆき、その現実的な過程の中で「神」の存在が薄れ、現代のように利潤が最優先される時代になっていったのではないかと考える。

 

経済思想講義レポート 17030042  松島なほ子 615日締切

613日講義   ハンナ・アレント『人間の条件』

人が生活していくには何らかの活動が必要である。レジュメでは活動を3種類に分けている。一つめは労働、奴隷のように自分の肉体を生活の必要物に仕える作業である。労働は背後に何も残さず、如何に努力を重ねてもその結果は努力を費やしたのと同じくらい早くに消費されてしまう。労働からうまれた産物は最も耐久性が低いが、生命過程そのものに必要とされる。そして労働は無限に繰り返される循環に拘束されている。この強制反復の中で労働のリズムはたやすく機械化できる。ただ労働は生命の再生産から抜け出せないため、永続的な幸福は望めない。それでも、人間社会は労働なしには成り立たない。野生動物の弱肉強食の世界のように3つの活動を弱肉強食のピラミッドにあてはめると、労働は草食動物の位置に当てはまるのではないか。最も数が多いが雑食や肉食の動物に捕食されてしまう。しかし草食動物がいなければ肉食動物だって生きられない。単純労働者がいなければ社会は経済活動の土台を失うことになるのも、これと同じような関係だと思う。

人の活動の二つめは仕事。ここでは仕事と労働は別物と考える。仕事は人間の手による人工物であり、その産物は適切に使用されれば消滅することはない。個々の工作物は腐食する運命にあるが、工作物全体は、世代を超え永続するような耐久性を持っている。つまり何かの職人が工作物の設計図を残したとすると、その設計図によって工作物は永遠に復元することが可能だという意味だ。かつては職人達が自分達の生産物を陳列して交換するアゴラなるものが存在し、商品とその生産が同時に陳列された。しかし労働が高く評価され労働社会が勃興し始めると、『人目に立つ生産』は『人目に立つ消費』に置き換えられ、商業社会は終末を迎えたのである。ここでこの話は職人と労働者を別のものとして考えているが、私は職人でも作業内容によっては労働者といえると思う。私の父親は着物を作る職人なのだが、着物の図案を構築することは他の誰にも出来ない「職人」としての作業である。しかしその図案を生地に移し色を塗るという過程は多少絵心のあるパートの人にも出来る。また同じ図案の着物が何枚も売れて大量生産しなければならなくなった時には、その図案しか使わないので父は職人ではなく労働者としての作業に入る。こうして考えてみると、職人にしても建築家にしても設計図を構築することは純粋に工作人としての作業だが、一度設計図が出来てしまえばあとは多少複雑な単純労働なのかもしれないと思った。

そして人の活動の三つめはそのまま「活動」である。「活動」がこの話の中で何をさすかというと、創始者が指導し支配者となることという意味合いを持っているらしい。目的を追わず、作品を残すことなく、ただ演技そのもののうちにこそ完全な意味がある。職種でいえば俳優、医師、演奏家、政治家などが挙げられる。この職種からすれば「活動」は憧れの職業ともいえるものが多い。何故憧れかというと、まず単純労働のように誰にでも出来る作業ではなく、いくらかの努力によって就くことが出来る。そしてこの職に就くこと自体難解なため、給与も高いことが理由に挙げられると思う。

以上の3種類が人間の活動だったが、私はこの中で職人が一番よいと思う。なぜかというと設計図を作ることで後世に自分の産物を残せるからである。後世に物が残っても幸せだと思わない人もいると思うが、私は個人的に自分の努力の結果が形として残り、永遠に復元可能という点に惹かれる。今日の講義で将来は何かの職人になってもいいなと思った。

 

経済思想講義レポート  17030042  松島なほ子 620日締切

615日講義 マルクーゼ『エロス的文明』

今日の講義が始まる前に、レジュメに一通り目を通してみたが、なんだか自分とは何の関係もない高度な哲学の話に思えた。実際授業のほとんどは観念的な古代の哲学者の思想についてだったが、いくつか今の自分の世代とも関係のある話題があることがわかった。

まず性の低年齢化の話。最近では小学生でも性行為を経験する子供達がいるらしい。自分が小学生の頃を思い返してみると、鼻水をたらしながらおにごっこをしている姿が思い返される。性についてなんて何も考えてなかったと思う。自分が女だったからかもしれない。男の子は女の子よりも興味を持つのは通説であるから。それにしても小学生で経験してしまった子供たちはなんだか可愛そうに思えてくる。肉体も精神も完全に未発達のままで、少し悪い遊びのような感覚でやってしまったのだろうと思う。私ははっきり言って『性経験は何歳からなら許されるでしょうか』という質問がきたら、何歳からでもいいと思う。だから別に小学生にませた子が少しくらいいても、興味を持つのが他の子よりも2、3年早かっただけだと思う。ただ、私の考えの場合、年齢制限はないが「正しい知識をちゃんともっている」という条件付である。正しい知識が今の自分にあるのかといわれるとあまり自信がないが、小学生の頃よりはかなりましになっていると思う。私の言う正しい知識というのは、どうやって性行為をするのかというところまでではなく、したらどうなるのかというところまで理解している場合である。リスクとその解決方法まで知っていないと、本当の知識とはいえないと思う。今の日本の社会では、小学生はもちろん中学生に対しても積極的な性教育はされていないといえる。それなのに社会には未青年の興味をくすぐる「どうやって」の知識のみが溢れていて、病気にかかってしまったり妊娠したり、中絶したりしなければならなくなった闇の部分はあまり表に出ることはない。中絶の低年齢化が進んでいるのはこのためだろうと思う。私は性経験は何歳からでもいいといったが、軽い気持ちでいいかげんにするのはいけないと思うし、もし自分に将来子供ができて性に興味を持つ歳になってきたら、性行為のリスクを教えてあげようと思っている。性病や中絶の危険が性行為にはつきものだということを知り、それを回避する方法と重要性を知った子供なら、好きになった人とやってもと思う。

次に自分に関係があると思ったのは『無脊椎人間』の話。授業中に、気付いたら眠ってしまっている自分、朝起きてもまた寝てしまって1講目に出られない自分。私は無脊椎人間に当てはまるのだとショックに思ったと同時に、何故、いつの間にこのような人間になってしまったのか考えた。講義では原因は権威喪失の為だとされていた。確かに親元を離れて北海道で一人暮らしをする前までは、授業中の居眠りはあったにせよ朝起きられなくて授業に出ないということはなかった。ただ、だからといって親元に帰ればこの無脊椎人間が治るとは思わない。親がいれば朝起こしてもらえて朝食も作ってもらえるというだけで、結局仕事に就いて一人暮らしを始めたときまた朝起きられなくなってしまうだろう。学生時代に自分を自分自身で律することが出来てこそ、社会に出る前の甘えから脱却できる手段なのだと私は考える。

 

経済思想講義レポート 17030042  松島なほ子 622

620日講義 ハバーマス『公共性の構造転換』

今日の講義を受けて私は「公共」という言葉と久しぶりに向き合った。公共という言葉を聞いて思い起こすのは、公園、交通機関、学校など人と多く出会う場所である。古代ギリシアや中世ヨーロッパ時代から、公共は市民同士のかかわりの面で重要な意味を持っていた。そこにいる人々に自分の考えを言葉で伝えるという能力は昔も今も重要視されている。最近は、今日の講義でも出てきたがブログで自分の日常を文字で公共の場に曝け出す人も増えてきたようである。私も日記をつけていた時期があったが、日記帳を自分の身内に見られても嫌だったのに、そんな私的なものをネットに公開してしまう人は何を考えているのだろうと思った。私が日記に書くことはその日の出来事と感じたこと、思っていても言葉に出さなかったことが多い。言葉に出せなかったぶん日記帳に書き記すことでストレスを発散していたのかもしれない。しかし鍵付の日記帳もあることだし、やはり日記の内容は自分の心の中にとどめておきたいものである。ただ、まったく面識のない人に、仮名で、顔を出す必要もないのなら見せてもいいかもしれない。日記を見られたくないのは自分と関係のある人に見られて思考がばれ、周囲の人間関係を壊すことになったら嫌だからである。関係のない人に自分の思考について意見してもらったほうが、自分ひとりで悶々とその気持ちを引きずるよりもストレス解消になるかもしれない。

ブログのように自分の正体を明かさず、文字で思いを公共の場に表現することもできるが、やはり自分が納得させたい相手を言葉で、態度で伝えるにはディベート能力が磨かれていることが必要だと思う。私は部活のミーティングなどでははっきりとものを言う。学年も3年生だし、言いたいことだって日々の部活でたまっているし、言わないと自分を含めた部員全員が効率の悪い練習になってしまうと思うからだ。反対にゼミの時間私はあまり進んで発言しない。思うことがあっても、専門的なことは先生と先輩のほうが詳しく、自分の発言が見当違いだったら勉強不足であることがばれてしまう・・・と思うと質問も慎重になってしまう。公共の場で討論をするには内容についての知識がないと不利である。就職活動中の面接でグループ面接が増えているのも、オピニオンリーダーとなれる人材を企業が求めているからであろう。オピニオンリーダーは話題についての知識があり、かつ意見をまとめる力があり、最終的には最適な結論を導き出すことの出来る人であると私は思う。日本は言葉でなくともその場の空気で意思表示をすることだってあるお国柄である。しかし米国の青春ドラマ(ビバリーヒルズ青春白書)を昔見ていて思ったのだが、みんな言いたいことを言っているため仲がこじれることが大変多いが、日本のように「表面上の付き合い」をする人が少ないのである。そして最終的に彼らは深く、信頼しあうようになる。生涯付き合える人間関係を築くには、意見をぶつけ合わなければいけないんだと思った。ゼミや就職活動の討論でも同じで、限られた短い時間のあいだでも自分の意見をぶつけないと誰の印象にも残らない存在になってしまう。この国際化時代で「言わなくてもわかる」関係が他国の人との一瞬の会合で築けるわけがない。私はただでさえ国際社会で嫌われている日本人である。諸外国と交流することもこの先の私の人生であるかもしれないが、その時は話題について入念な下調べをし、相手にはっきり返答し、自分でも満足の行く討論をしてみたい。

 

経済思想講義レポート  17030042 松島なほ子 627日締切

622日講義 ヴェブレン『有閑階級の理論――制度の進化に関する経済学的研究』

 今日の講義は有閑階級についてだった。有閑階級というと文化人や知識人、成り上がり者、地主、高所得者、フリーターなどが挙げられるという。これらの身分から思うことは、彼らは労働分よりも多くの給与をもらっているだろうということ。そしてもうひとつ、フリーターを除けば、有閑階級と呼ばれる職業に就くには高度な知識や才能が必要であることが多いということだ。このため社会で有閑階級につくには『狭き門』――医師国家試験や司法試験、幾つものライバルを蹴落とし頂点に立つことなど――を通らねばならない場合がある。この狭き門を求めて奮闘するものもいれば、有閑階級に入ることに何の美徳も見出せないと鼻から興味のないものもいる。私はどちらかというと有閑階級に入ることに興味のないほうだ。興味がない、というよりも諦めようとしてしまっているのかもしれない。いまさら医者や弁護士になる気もないし、なりたいとも思わない。今やりたいことは就職してそれなりに「いい会社」(給料がよくて自宅から近く安定している会社)に入り、30歳前には結婚して子供がほしいかな、という自分でも少し悲しくなるくらい現実的な将来だ。中学生までは画家になりたかったのにどうしたことだろうか。実際今でも美術部の友人の展覧会に足を運んだりすると、「絵を書くことを生業に出来たらどんなに幸せだろう」と思ってしまう。しかしこの時代に絵を買ってくれる人なんてそうそういないだろうし、絵だけじゃ食べていけないという現実が私の画家の夢をすぐ壊してしまう。高校に入るまでは親にしつこく美大に行かせてほしいと頼んでいたが、私の両親は絵が好きで、趣味がこうじて職を選び失敗した口なので強く反対された。私の両親は着物の職人で、有閑階級に入るといっていい職業である。しかし有閑階級は「当たれば儲かる」のだが、当たらなかった場合は貧乏な下層階級にはいってしまう場合が多い。リスクが大きいのである。子供には自分達のようなリスクを背負ってほしくなくて両親は大学に行かせてくれたのだと思うし、子供は私一人だし、そんな両親に将来楽をさせてあげたいということもあって私は現実的な将来を目指すようになった。世の中の有閑階級に興味がないといっている人は、私のように「リスクのある夢よりも安定した現実」を選んでいるのかもしれない。

 世の中の大部分の人は夢を抑えながら現実社会で生きている。「OLの皆さんがブランド品を買うのはなぜか」という疑問が講義の最後に出たが、私は彼女達が夢をかなえられなかった代わりに所有欲で精神的な空虚を補おうとしているのではないかと思う。ブランド品にこだわるのは今やOLだけではなく、高校生や大学生も若者に人気の高級ブランド服を買い求めている人もいる。「高級な服のほうが質がいいし、カッコいいから」という理由を言う人が多いが、中にはブランドというだけで原価二千円程のTシャツに何万円という値がつくこともある。私はブランド品を買う人は「高級品→お金に余裕がある」というステータスが欲しいという考えも無意識にあると思う。お金持ちというステータスは、言い換えれば成功した有閑階級に仲間入りしているということかもしれない。

 有閑階級には入れるものなら入りたいというのが人々の本音だろう。しかし入るのはそう簡単ではない。そこで人々は何らかの手段――ある人は高級品を買うことで――有閑階級でしか得られないお金や時間の欲求を満たそうとしているのかもしれないと思った。

 

経済思想講義レポート   17030042  松島なほ子 629日締切

627日講義  ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

今日はモノの消費について学んだ。私が今生きているのは「大量生産大量消費」のシステムが確立された社会である。余分な消費が豊かさをあらわすため、人々はより多くの余分を手に入れるため日夜仕事に勤しむ。レジュメにある『魔術的経済』と言う表現がぴたりと当てはまると思った。特定の人々はこの魔術的経済から離れ、環境に内在する諸要素(機能的生活、美的素質、高い教養)の自立的で合理的な論理に接近できるため、他の人々との間に根本的な差別が存在するという。ここで私は講義中の例え話でビル・ゲイツ財団について触れていた事を思い出す。

ビル・ゲイツ財団は「学生のうちは学業だけに集中し、服装やその他無駄なことに構う必要はありません。」という意味をこめて奨学金を出し、そのうちの百分の一でもいいから優秀な学生を育てるという計画らしい。確かに私がこれまでに知り合った成績優秀な友人は、ファッションに構おうという意識の少ない人が多かった。私が季節の変わり目バーゲンに走っている間、優秀な彼らは家で勉強していたのだろう。私はいつのまにか消費の魔術にとりつかれていた。小学生の頃まで好きだった勉強も「受験」を経験したころから苦痛に思えてきた。今はただ大学を卒業しなければいけないので勉強している面が大きい。私はモノ自体に価値を与え、他のすべてのもの(思想、余暇、知識、文化)にもモノとしての価値を与えざるを得ない思考になった。これが物心崇拝的論理、消費のイデオロギーだと今日の講義で知った。知識をモノとしてみる観点からしてみれば、私は大学卒という事実がほしくて大学に入ったのかもしれない。受験勉強したのも、ただ自分が「劣等生」の汚名を着たくないからだった。高校の勉強で心底面白いと思っていたのは国語と美術で、後は興味のない分野だったので成績はそれなりに悪かった。そのせいもあり一度受験に失敗してしまうが、嫌いな科目は勉強したくないからという子供じみた理由で親の脛を齧るのももっと嫌だったので、一年間で無理やり教科書の内容を頭に詰め込んだ。

このような私に知識をモノではなく知識そのものとして受け入れろ、と急に言っても無理だと思う。私にとって数学や物理は大学に合格するための手段にすぎない。講義の中で私は、消費が服や食べ物を買うこととしか見てこなかったが、大学で単位を取るために苦手なファイナンスや情報分析の勉強をしていることも消費だったのだと言うことに気づき、なんとなく気持ちが軽くなった。苦手科目を勉強することも嫌いなものを食べることも同じだと思えたからだ。

その他講義中で記憶に残ったのは「消費による個性化の要求」についてだ。消費社会の成熟は、画一的な商品から、各人の個性にあわせた製品を生み出せるようになる。が、その実、いくつかのパタンの中から気に入ったものを選ぶだけで、それは自己に固有の「個性」ではなく一定のコードへの服従であり、生産による支配である。とレジュメにはっきり書かれており、今まで自分がなんとなく考えていたことが文章に表されていたのですっきりした気分になった。確かに「個性的」と言われているファッションをとっても、そのファッションをする人が少ないだけで実際日本中に同じような人がたくさんいるのはわかっていた。日々の生活を哲学的な思想から見てみるのも面白いと思った。